51号~100号
100号 2024/1/31
今思うこと(その1)
被災当時の私は小学6年生で長岡市の街中に住んでいました。
地震が起きた日は土曜日の夕方だったので家で宿題をしながら
夕飯ができるのを待っていたのです。
そうしたら突然今まで感じたことのない揺れを感じて、
学校で習った「大きな揺れが起きたら狭い所に逃げろ」というのを思い出して、
とっさに自分の部屋からトイレに逃げ込んだのです。
この時は地震とは思わずにミサイルが落ちたと思っていました。
小学生ながら初めて死を覚悟した瞬間でした。
揺れが収まってからすぐに家から出て近所の方々と肩を寄り添いあいました。
お母さんが作ってくれていた夕飯も全て床にこぼれていて、
地震当日の夕飯は少し溶けかけのアイスとお菓子でした。
ライフラインが全て止まり、真っ暗な中いつまでも鳴りやまないサイレンの音。
この日の月と星の輝きは今でも鮮明に覚えています。
車中泊生活を3日間くらいし、その後は当時通っていた小学校で避難所生活をしました。
食べるものが無かったのでおにぎりやパンをいただけることがすごく嬉しくて、
毎日届く支援物資がとても楽しみでした。
そしてもう一つ楽しみだったことは避難所の中で学校の友達と毎日遊べることでした。
学校の音楽室で毎日ピアノを弾いて遊べていたから寂しい思いをせず過ごせたのかなと思います。
そして近くの温泉が開放してくれて、一週間ぶりのお風呂は最高でした。
【執筆】農業タレント 田中彩貴(第1話)
99号 2024/1/30
中越メモリアル回廊拠点整備事業について(その2)
「中越メモリアル拠点整備基本構想」では、
「中越大震災メモリアル拠点に期待されている基本的な役割」として
①災害に強い地域づくりに向けた拠点
②被災経験や被災現場を活用した交流人口拡大の拠点
③世界的に多発する災害の被災地への支援や貢献活動の拠点
の三つを掲げ、さらに「中越大震災メモリアル拠点構築の視点」として
①「知」のネットワークの形成(学民連携による知見の創出・発信の仕組みづくり)
②「地」のネットワークの形成(知見活用による交流人口の拡大の仕組みづくり)
の二つを軸に据えました。
「中越メモリアル拠点整備」は、被災した現場をなるべく現状のまま保存することで、
震災経験の風化を防止することも目的にしています。
この事業では4施設3パークを被災地に設けることで震災の記憶を伝える場として整備し、
震災アーカイブの収集・活用拠点としての運営も担っています。
4つの拠点施設ではありますが、長岡市大手通に「長岡震災アーカイブセンター」、
小千谷市に「おぢや震災ミュージアム」、長岡市川口に「川口きずな館」がまずオープンし、
長岡市山古志では「やまこし復興交流館(仮)」が開設の準備を進めてました。
3パークは、地震発生の震央である川口武道窪に「震央メモリアルパーク」、
大規模な土砂崩落により被災現場となった長岡市妙見に「妙見メモリアルパーク」を整備しました。
山古志木籠では、中越地震最大の土砂崩落により発生した河道閉塞による水没集落があり、
「木籠メモリアルパーク」として位置づけました。
【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第6話)
(元中越メモリアル回廊担当職員)
98号 2024/1/29
中越メモリアル回廊拠点整備事業について(その1)
私が関わることになったメモリアル回廊について今後も書いていきたいと思います。
それに当たって、少し整理してからあらためて始めたいと思います。
平成23年10月に「中越メモリアル回廊」(以下「回廊」)が開設されました。
これは平成17年3月にまとめられた「新潟県復興計画」の中で
中越震災メモリアルと総合的研究機関の項目として
①震災メモリアル拠点構想、②震災アーカイブス・ミュージアムの整備の構想
にもあげられています。
被災市町村では、平成19年3月に策定された長岡市、小千谷市、川口町 (当時)による
「災害メモリアル拠点整備基本構想」があります。
この目的として、
①中越地域の経験を保存・継承した、防災活動の拠点づくり。
②地震・災害・復興・防災の研究・学習の拠点づくり
③中越地震をきっかけとした、新たな地域振興に寄与する
ことがあげられました。
この制定には「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」や、
「雲仙普賢災害記念館」などが参考とされています。
この構想をより具体化し、実現させるために、
平成22年「災害メモリアル拠点整備基本構想に関する提言」として
「中越メモリアル拠点整備基本構想」を機構が取りまとめ、
2市1町の首長により、新潟県知事へ提出されました。
(その2へ続く:明日配信)
【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第5話)
(元中越メモリアル回廊担当職員)
97号 2024/1/28
台湾大震災(1999)と中越大震災の復興交流(その1)
2023年12月6日に、台湾内務省消防署(日本の総務省消防庁に相当)からの招聘を受けて、
湾内務省防災セミナー2023の講師として、2019年以来の訪台となった。
テーマは、地域防災計画の改定、高齢社会の防災、事前復興の推進の3題でした。
台湾は、1999年8月17日のトルコ西北地震(マルマラ地震)に引き続き、
1999年9月21日に台湾の中央部で最大13mも陸地が上下に割れ動く活断層地震(甫里地震)が発生し、
台湾山脈の麓や山間の多くの集落が壊滅的に被災する直下型地震災害となりました。
1995年の阪神・淡路大震災、アジアの東西でマルマラ地震と台湾大地震の
3つの直下地震の復興を比較検討する研究チームを立ち上げ、
長岡造形大学の澤田雅浩先生にも加わっていただいた。
まさか5年後に中越地震が起きるなんて考えてもいませんでした。
1998年に東京都では神戸の復興まちづくりをモデルとして「都市復興マニュアル」を
取り纏めていたので、その年の11月に台湾大学で開催されたセミナーで、
事前復興を発表し、マニュアルも同大学の陳亮全先生に渡していました。
陳先生によると、震災直後にそれを熟読して台湾の復興に取り組んだとのことでした。
高齢化が進む山村集落に大学生など若い人を復興まちづくり支援員(重建社区営造員)として
復興基金の援助で送り込み、多くの企業の経済的復興支援とともに、
被災者主体の山村復興に取り組み、都市に流出していた子供たちが回帰して
多様なふるさと観光(グリーンツーリズム)を柱に各集落の活性化を実現していきました。
中越大震災の復興モデルは、阪神・淡路大震災の都市型でなく台湾型の山村型にあると直感し、
澤田先生の新車のランクルで山間の被災地を駆け回らせてもらいました。
(つづく)
【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第5話)
(新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)
096号 2024/1/27
発災翌日から避難所開設(第2回)
震災翌日、ようやく周りの状況が見えてきた。
実はあまりニュースにはならなかったが、昨日町内で倒壊した家屋からの救出劇もあった。
後で分かったのだが、当地区は地震通りとも呼ばれ、倒壊した家屋が特に多かったようだ。
さて、我が家には母屋とは別に耐雪型の丸車庫(2階建)があり、
そちらはほとんど被害が無かったので、暫くはここで寝泊まりをすることとした。
食事の配給は少なかったが、親戚、近所の差し入れや自宅のストックで食べることには困らなかった。
しかし、トイレの問題は切迫しており、地主の許可を得て田んぼの中に穴を掘り、
周りを仮設足場で組み目隠しをした応急トイレを町民協力で作成した。
1週間ほど経過した頃だろうか、
「各地区で避難所が立ち上がっている。当地区でも避難所を開設するべきだ」との声が上がった。
避難所は吉谷小学校となり、これから怒涛の日々を過ごすことになる。
言い忘れたが、この年私は町内会長(地区会長)を受けていた。
(つづく)
【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第2話)
元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)
095号 2024/1/26
中越大震災発生!消防士だった私の体験談②
身体を拭いて、服を着て、懐中電灯とラジオを持って家族と外へ。
地鳴り…?と思ったらその後すぐに余震(5強)が…。
危険なものがないのを確認して、その場でしゃがみ込みました。
「もうカオスだ…」と口ずさんだのを覚えています。
私の育った町内は行事もあまりなく、日頃から関係性が希薄だったので、
どの人がだれなのか、ろくにわからない。
知っているのは同級生の実家の元気なお隣さんくらい。
そのとても元気で世話焼きなおばちゃんは、
「大丈夫―!?」と大声を出しながら走り回り、
向かいのアパート全戸に声がけをしていた。
超重要な安否確認を一人でやっているおばさんを横目に、
震える家族を落ち着かせようと声がけをしていたところにまた余震…。
市職員は震度5弱以上の地震は自主参集。職場に向かわなければならない。
震えている家族を置いて、向かわねばならないのかと不安でいっぱいだったが、
母が帰宅したので一安心。相談して家族を頼むことにした。
【執筆】NPO法人ふるさと未来創造堂 常務理事兼事務局長 中野雅嗣(第2話)
094号 2024/1/25
中越大震災をアーカイブする(第1回)
私は、令和5年7月1日に開館した長岡市歴史文書館で、
郷土長岡の歴史的な資料を保存・活用する仕事に取り組んでいます。
このメールマガジンでは、当館が中越大震災を機に開始した
災害と復興を「アーカイブする」(記録として保存する)取り組みを、
関係の文献とともにご紹介します。
平成16年10月23日午後5時56分、私は市立互尊文庫の2階にいました。
嘱託員として勤務していた文書資料室(歴史文書館の前身施設)は、
互尊文庫の中にありました。
翌週に開催予定だった市制100周年記念誌の編集委員会の会議資料を
作成していた時に地震が発生したのです。
爆弾が落ちたのかと思うほどの体感と、
上司が閲覧室のドアごと横に揺れていた光景を今でも覚えています。
余震が続くなかで、互尊文庫の利用者の避難と建物の被害を確認した後、
館内と隣接する明治公園で過ごして、家に帰ったのは深夜になってから。
停電でパトカーと消防車の赤色灯しか見えない真っ暗闇の帰り道で思ったのは、
仕事として何かできることはないか、ということでした。
上司にそのことを相談し、
現在まで続く「長岡市災害復興文庫」を構築する取り組みが始まりました。
※文中で紹介した記念誌は『長岡市政100年のあゆみ』(平成18年発行)です。
「市政プロジェクト」の一つとして、
「地域の復興に向けて~7・13水害と新潟県中越大震災~」が掲載されています。
【執筆】長岡市歴史文書館 館長 田中洋史(第1話)
093号 2024/1/24
中越大震災20年プロジェクト進行中(1)
新潟県中越大震災20年プロジェクトのキックオフから今日でちょうど3ヶ月。
事業期間(1年間)4分の1が過ぎたことになります。
つまりこのメルマガも予定期間の4分の1が終了… まだ先は長いです!
無事やり遂げたいと思います。
ホームページもリニューアルしました。
https://www.chuetsu20.com/
賛同団体も増やしていけたらと思います。
https://www.chuetsu20.com/partner/
本プロジェクトの一環として「復興プロセス研究会」を復活させました。
この研究会は、中越大震災の4年後、2008年に設立され、
県内の若手研究者と復興支援に関わる実務者をメンバーとして、
2ヶ月に一回程度の頻度で集まり、「復興とは」をとことん議論しました。
そして中越大震災から10年の復興プロセスを記録し、論文・報告書・書籍にまとめ、
研究会の活動もそこで一区切り… 休眠状態となりました。
まもなく中越大震災から20年。
復興宣言を掲げた震災10年から今日に至る10年間、
被災地だった中越地域はどのように変化してきたのか。
震災復興のプロセスは、現在の地域にどのように影響しているのか。
地域を牽引してきたリーダーの存在や役割は継承されているのか。
そして震災20年から始まる新たな10年はどうあってほしいのか。
当時の研究会メンバーに協力を呼びかけ、復興プロセス研究会2024が動き出しました。
【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 事務局長 諸橋和行(第1話)
092号 2024/1/23
第4話 帰投と仮設住宅の暮らし(その2)
川口中学校のグランドに建設されていた仮設住宅に、まわりよりほぼ1年遅れで入居した。
1フロア完結の間取りは東京で住んでいた住居によく似ていた。
末っ子長男は布団を敷き終えて空いた押し入れをベットにしてなんだか楽しそうだった。
地面からたった5cmの床は除雪のブルドーザーで毎朝5時にガタガタと揺れたが、
家族が一緒にいれることの喜びの方が大きく、
なにより春になれば新築の家に入れるという希望が家族を支えていた。
そういえば、結露で玄関のサッシ戸のレールが凍って、朝、家から出れなくなったことや、
学校から帰って来た長女が玄関を開けようとするがレールが凍りついて開かず、
お隣さんからお湯をもらってようやく入ることができたなんて事が何回かあったなぁ~
今から思えば良い思い出の一つだったかもしれない。
仮設住宅での大きな思い出がもう一つある。
長女に担任の先生から一つの願いが託された。
同じ仮設住宅に住む不登校なった同級生に、
登校時に毎朝声をかけて登校を促して欲しいとの依頼であった。
真面目な長女は正面からそれと向き合った。
来る日も来る日も登校前に無駄とも思える行為を繰り返した。
結果は聞いてはいないが、今や一児の母となった娘の当時の行動を誇りに思っている。
仮設住宅での暮らしは、子供たちの日々の成長を実感させ、
狭い部屋での寄固まった生活は家族の関係をより深めることとなった。
仮設住宅の一冬を経て自宅の建替えが完了、春から両親を迎えての新しい生活が始まる。
【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第7話)
091号 2024/1/22
第4話 帰投と仮設住宅の暮らし(その1)
地震発生からしばらくして「週間文春」の見開きに、
玄関先に座って肩を落とし途方に暮れる老人の写真が掲載された。
父であった。懇意の先輩が部門のトップにこの写真を見せて私の帰投を促してくれた。
「帰れるならばポストなど問わない」願いは叶った。
地震の翌年7月、小千谷市の事業所に転勤が認められ単身で川口町に帰投。
傾いていた実家は倒壊した隣家の撤去により傾きが復元し、
何とか住み暮らせるようになってはいたが安全とは言い難かった。
それでも、8月の夏休みを経て妻と子供たちは東京の暮らしを捨てて転居してくれた。
特に長男は小学校のサッカー仲間から大切にされており、
楽しい日々を捨てさせることに心が痛んだ。
転校先は川口中学校・川口小学校。
「こんな時に転入生?」そんな声を後から聞いた。
家の再建に向けて仮住まい探しには手こずったが、
雪が降る前に仮設住宅に入れることになり定住に向けて歩みは一歩進んだ。
(その2へ続く:明日配信)
【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第6話)
090号 2024/1/21
今考えて思うこと(第4話)
被災後太田小・中学校は避難所となりました。
そこには住民の方々や蓬平温泉に宿泊されていた大勢の方々が避難されたため、
せいぜい一人が座るくらいのスペースがあるくらいで大変混雑していました。
この時の経験から、防災教育で避難所運営を指導する際、
想定される避難者数を出すことは簡単ではないものの、
いくつかの条件を設定し、最大数で考えるように子ども達に伝えています。
数日後、地震により校舎が受けたダメージが大きく、
損壊の可能性があるということで学校を一時移転することになりました。
だれが、どのような話し合いをしたか分かりませんが、
結果として宮内地区にある前川小学校に間借りすることになりました。
当時、前川小学校の校長をされていた神村大輔先生は、
突然他の小・中学生が入ってきて大変だったと思うのですが、
私たち教職員に度々心温まる言葉をかけてくださいました。
今でも感謝していますし、そのお言葉を忘れることができません。
防災は想定外の災害に対する備えです。
その意味で、校舎が使えなくなることも事前に考える必要があります。
市町村や県はそういった事態になった際、誰かの温情にすがるのではなく、
システマチックに対応する準備をしておく必要があると思います。
ちなみに太田小・中学校が改修された校舎に戻れたのは震災の2年後でした。
【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第4話)
(前三条市立第四中学校 校長)
089号 2024/1/20
被災者に寄り添う新潟発の災害食
自宅がある東京の江戸川区で行われる防災訓練では、終わりの時刻が近づくと、
賞味期限が間近に迫った備蓄食が、お土産として配られる。
毎回、かなりの量のクラッカーや乾パンを頂戴して帰るのだが、美味しく食べた記憶がない。
「災害時には、厳しい食生活に耐えることになる」「もったいなので残してはだめだ」。
そう思っていつも何とか食べきっている。
新潟に赴任した今から6年前、当地には美味しい非常食が数多くあることに驚いた。
しかも、被災後に命をつなぐ食べもののことを、新潟では多くの人が非常食ではなく「災害食」と言う。
そして、その「災害食」のほとんどが、大災害を引き起こした新潟県中越地震の教訓を
踏まえた創意工夫の中から生まれたことを、赴任して間もなく知った。
長岡市に本社を構える「エコ・ライス新潟」が災害食の製造を始めたのは、
腎機能障害を抱える高齢男性の家族が、中越地震の避難所で漏らした、
こんな呟きがきっかけだったそうだ。
「おじいちゃんが食べられるものが、ここにはないんです」
支援物資としてカップラーメンが届いても「塩分が多すぎて食べられない」。
中越地震で浮き彫りになった過酷な現実と向き合い、
同社では低タンパク米でレトルトパック入りのご飯を開発した。
「超高齢社会にやさしい」のキャッチフレーズを掲げたこの災害食は、
腎臓病でも安心して食べられる災害対応備蓄品として全国に販路を広げている。
多くの優れた災害食が新潟では日々製造されている。
飲料水の確保もままならない状況が続いている能登半島地震の被災地の高齢化率は5割を超えるという。
助かった方々の命を守り支えるために、新潟発の災害食が被災者の元に一刻も早く届くことを祈りたい。
【執筆】読売新聞所沢支局長 堀井宏悦(テレビ新潟放送網 元監査役)(第3話)
088号 2024/1/19
被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(5)
-コミュニティを尊重した仮設住宅-
山古志村民のための仮設住宅の位置を決定するに際して悩ましいことがあった。
全村民のための仮設住宅を1カ所にまとめて建設することを優先すれば、
それだけの広さの用地は長岡ニュータウンしかない。
すると山古志村からは遠くなる。
山古志村に近いところに建設することを優先すれば数カ所に分けなければならない。
マスコミを中心に様々な意見が寄せられた。
実は、私は大学の建築学部でコミュニティ計画を専攻していた。
恩師の鈴木成文先生は、当時、神戸芸工大学の学長で、FAXで、
「神戸の轍を踏まずコミュニティを尊重すべきだ。」というご意見とともに、
広場を中心に周囲を円形に囲う配置にした配置図までいただいた。
プレッシャーだった。
また、当時の長島村長も同意見であったので、
長岡ニュータウン1カ所に建設することとした。
広場を円形に囲むスペースの余裕はなかったので、
二棟の玄関を向かい合わせに配置するとともに集会所を数カ所建設した。
さらに、仮設住宅を所管する厚生労働省の反対を押し切り、
仮設住宅に床屋の開業を認めた。
結果的に長引く仮設暮らしを支えるとともに
集団移転等の話し合いが成功した要因となったと思う。
【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第5話)
087号 2024/1/18
竹田集落の元気づくり活動が始まる
越後川口に引っ越して来て中越地震の前に母、震災後に父を亡くし、
一軒家で一人暮らしになった頃にやってきた地域復興支援員。
竹田集落でも10世帯から7世帯に減って
「何となくさみしくなった」との声が聞こえてきた頃でした。
そんな中、支援員は数回にわたり竹田について集落のみんなから聞き取り。
いわゆるワークショップというやつです。
そこからさまざまな活動が具体的に始まったのが2009年度。
この年にそれまで「移住者だから」と免れていた総代の役を初めて任されました。
よりによってこんな時に。
一応それなりの責任感はあるので、
総代と地域づくりの両輪をみんなの協力でなんとかこなして、
当時は沢山あった震災復興に関係する会議やイベントに出来る限り顔を出しました。
そして1年が過ぎ、やっと終わる(竹田総代は一年交代)と思ったら
「地域づくりはおまえがやって」との声。
そして「いや」を打ち消す「そうだ」の声。
こうして竹田元気づくり会議の代表になり、断るタイミングを失ったまま今に至ります。
(つづく)
【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第5話)
086号 2024/1/17
中越地震は、どんな地震だったのか?(第6回)
「帰ろう山古志へ」というキーワードからは、多くの住民たちが、
例え条件不利であったとしも「山」に帰り暮らしていくとする、
強い意志と覚悟が込められている強烈なメッセージがにじみ出ていました。
故長島忠美氏は、あらゆる機会を通じてこのメッセージを発信し続けました。
山古志で暮らしている高齢者は「山」でしか暮らせない。
住民を山から下ろすことは、中山間地の息の根を止めることになる、と。
一人暮らしの高齢者も含めた全住民を、長岡ニュータウンの仮設住宅に
一本化した意味はここにありました。
地域コミュニティの崩壊を回避し、「帰ろう山古志へ」という具体的な目標を掲げ、
地域が一丸となって前へと進む原動力としたかったのです。
【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第6話)
(公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)
085号 2024/1/16
川口地域と石川県穴水町とのつながり
川口地域では中越地震を機に新たな活動や交流が生まれ、
現在でも続いているものが多数あります。
石川県穴水町との交流もそのひとつです。
中越地震後、川口地域の商店街の有志の方々で立ち上げた「本町通り復興活性委員会」。
復興とともに商店街の今後を考える中で、平成19年3月に発生した「平成19年能登半島地震」で
震度6強の揺れのあった穴水町の商店街組合と被災地間交流を行ったのが始まりです。
それ以後、商店街の活性化に向けた取り組みとして、両地域のイベントに出店し、
川口地域からは笹だんごや魚沼産コシヒカリを、
穴水町からは能登の牡蛎や干物などの販売を行い交流を続けてきました。
コロナ禍前、平成31年の川口地域の冬まつり「えちごかわぐち雪洞火ぼたる祭」にも穴水町から
「能登牡蛎焼き」、「いしるダレ焼き鳥」など名物をたくさん持って参加してくれました。
その際に、川口地域には自宅の1室を宿泊にと穴水町の方に泊まっていただいたり、
ボランティアとして販売のお手伝いをしたり…。
このようなお互いの顔が見える交流の積み重ねが川口地域と穴水町との強いつながりになっています。
元旦に大きな揺れが襲った「令和6年能登半島地震」。
被災された地域へ、川口地域でも被災経験があるからこそできる支援の輪が広がっています。
【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構川口サテライト 地域復興支援員 佐々木ゆみ子(第4話)
084号 2024/1/15
北仮設と足湯(その2)
吉椿雅道さんに、当時、長岡市の千手にあった中越復興市民会議のプレハブの2階で
足湯講習会をしてもらったのが2005年の12月のことでした。
現地に断続的に通っていた大阪大学の学生たちで足湯を学びました。
お湯の温度のこと、くるぶしまでお湯につけること、
手のひらをさすることに東洋医学的にどのような意味があるのか。
同時に、足湯をしてもらっているときに、被災者の人からこぼれてくる言葉、
それを受けとめることが大切なんだと学びました。
その言葉をつぶやきと呼んでいる、なにげなくつぶやきから見えるもの、ことがあるのだと。
こうして北仮設で毎月1回の足湯が始まりました。
大阪大学の学生は毎月大阪から夜行列車に乗って。
現地の長岡技術科学大学のVolt of Nuts(ボルト・オブ・ナッツ、通称「ボルナツ」)の
学生たちも加わりました。
この足湯は、北仮設がなくなるまで毎月続けられたのです。
【執筆】大阪大学大学院人間科学研究科 准教授 宮本匠(第2話)
083号 2024/1/14
(災害発生直後は)「救援物資は原則受け取りません」宣言(その2)
救援物資は、被災者に対する思いやりの表れであり、その気持ちは本当にありがたい。
しかし〝善意〟であるからこそ、それが被災地では生かしきれていないということを
被災地として表明し、新たなルールづくりのための具体的な議論を起こしていきたい、
当時、自治体としては思い切った決断だと、気負って身構えたことを鮮明に思い出す。
さわやか福祉財団理事長だった堀田力さんが、「相手の役に立ってこその〝善意〟。
被災地に即した物資を送るルールづくりが必要だ」と朝日新聞で発言してくれた。
長岡市が「救援物資、受け取りません」という、一瞬えっ!といったアナウンス効果を利用して、
その視野の先にあったのもそこのところだった。
長岡市の新たな防災計画には、
大規模な災害の発生直後は、①何が ②どのくらい ③いつまでに
送られてくるかわからない不特定多数からの小口の救援物資を分類・小分けして、
①必要としている人に ②必要としているものを ③必要としている時期に、
配布することは極めて難しい…ことから、
当面は発生直後における救援物資を受け入れないこととし、応援協定の充実を図り、
これに基づいて企業、自治体等から食料、生活物資等を迅速にかつ必要量を調達し、
NPOなどと連携・協力して、必要物資を迅速に被災者に届けることを明記した。
直後に起こった能登半島地震では、長岡市からの助言を参考に、県が調整役となり、
各市町村で必要なものをリストアップし、必要なものだけを送り主に依頼することで、
生かしきれない物資の山積みを防いだことが新聞・テレビ等で報じられた。
【執筆】公立大学法人長岡造形大学副理事長 河村正美(第2話)
(前長岡市危機管理防災課長)
082号 2024/1/13
仮設住宅の計画に生かされた阪神・淡路大震災の教訓
-神戸からみる中越地震の復興の意味(4)-
1995年に発生した阪神・淡路大震災から9年、
次の最大震度7を計測した中越地震の被災地には、神戸からの多くの支援が行われました。
その中には、神戸での苦い経験から培われた教訓も含まれています。
その一つが仮設住宅の計画と提供の方法です。
阪神・淡路大震災では、多くの建物が倒壊しただけでなく、
各地で発生した火災が延焼し、面的な被害となりました。
住む場所を完全に失った多くの被災者が避難所でつらい思いをする中、
仮の住まいとしての仮設住宅の供給が急がれました。
ただ、供給を急ぐあまり、建設できる場所の選定や入居者の選定は
十分に吟味されたものではありませんでした。
もともと住んでいた場所とは遠く離れたニュータウンや、
埋め立てによりできた人工島などに建設された仮設住宅は、
一気に入居希望者用のすべての住宅を用意することはできませんでした。
そのため、入居者の選定は、高齢者、配慮の必要な方を優先に、
抽選で決める、という取り扱いになりました。
結果、被災された方は、馴染みのない土地に、周りも知らない人だらけ、
という環境で仮設住宅ぐらしをはじめることになりました。
結果、引きこもりがちになる人も増え、それがいわゆる
「孤独死」の発生につながってしまいました。
こういった教訓は中越地震直後に新潟に伝えられました。
結果、集落ごとの入居ができるような仮設住宅計画が検討され、
地域によっては、隣り合う世帯の組み合わせまで考慮した建設計画へと繋がっています。
山古志村の仮設住宅が建設された長岡ニュータウンの3箇所のうち、
陽光台仮設団地には、村内の郵便局や駐在所も併設され、仮の住まいではあるけれど、
なるべく元の生活に近い環境を整えようという意図が明確に現れることになりました。
そのことで、集会所も有効活用されただけでなく、みんなで助け合って暮らしながら
ふるさとへ戻る気持ちを維持する、ということにも繋がっています。
【執筆】兵庫県立大学大学院 准教授 澤田雅浩(第4話)
(長岡震災アーカイブセンターきおくみらい 館長)
081号 2024/1/12
川口町災害対策本部日記(4)
県の連絡員や兵庫県からの応援職員に割り振られていた役場の会議室から起き出して、
人気の無い早朝の街の中を歩く。ひび割れてうねっている道路。
傾いている家、ひっくり返った灯籠、まっすぐなものは何もない。
これは現実の世界だろうか。まるで夢の中にいるような感覚になる。
午前、役場本部を小高地区の人々が訪ねてきた。
「あそこにはもうおれん。集団移転する。皆で決めた。」
悲痛な声が聞こえる。町長は無言で代表を見つめていた。
しばらくして派遣期間を終え、県庁に帰ることになった。
応急復旧を終えて通れるようになった国道17号を新潟方面へ向かう。
停電で真っ暗だった被災地から抜け出すと、街が光に満ちあふれていた。
これは現実なのだろうか。まるで別の世界に紛れ込んだよう。
再び、ふしぎな感覚におそわれた。
【執筆】公益財団法人新潟県スポーツ協会 専務理事 細貝和司(第4話)
(元新潟県防災企画課長)
080号 2024/1/11
まだ起きていない雪害を想定する(第4回)
11月2日の第1回委員会には、交通機関が混乱しきっているにも関わらず、
仙台や東京からも多くの研究者が駆けつけてくれました。
私を含め数名が被災地の調査をしていたので、
写真を見ながら起こりうる雪害について議論しました。
「雪害は百の顔を持つ」と先人が形容したほど多種多様です。
その多様な雪害を網羅して、冬に起こりうる災害のシナリオを作らなければなりません。
そこで5つのグループで手分けして作業することにしました。
しかし、冬までに残された期間はわずか。
シナリオを整理して冬に間に合う具体策を提案できたとしても、
それが住民や行政に届いて効果をあげるには少なくとも1ヶ月は必要でしょう。
12月に入ればいつ雪が降り出すかわかりません。時間との勝負です。
雪害への警鐘と提言を世に問うための報告会を11月14日と決めました。
作業できるのはわずか十日ほど。
インターネットを通じて情報が随時配信され、議論しては修正し、
それを繰り返すことで急ピッチで文書をまとめていきました。
報告会前夜、長岡技術科学大学を会場に、深夜まで取りまとめの作業を行い、
一字一句慎重に書き上げられた速報「中越地震後の雪氷災害軽減のために」は、
11月14日午後2時、広く一般に向けて発表されたのです。(つづく)
【執筆】長岡技術科学大学 教授 上村靖司(第4話)
(新潟県中越大震災20年プロジェクト 副実行委員長)
079号 2024/1/10
地域復興支援員のこと(その4)
先輩自慢をさせてください。
地域のこと、地域の人、何でも知っています。
中越大震災の地域復興の生き字引です。
そして、失敗を恐れない挑戦者でもありました。
イベントごとは仕切りがプロ。
(ちなみに地域の方もイベント慣れしており、運営のスキルが半端なかった…)
山古志に今、これが必要だ!と思ったら、すぐに企画立案、
会議で話し合い、合意が取れたら着手。これが早かった。
地域のリーダーたちから、こういうの出来る?と相談があったときも
「やります!」といって、方法、財源、人探し、案を提示。
できるところまで持っていく執念が凄かったです。
気づく力、フットワークの軽さ、失敗を恐れない強い心、と弱さを支えるチームワーク、
地域復興支援員に必要なスキルってこういうことなのかなと、背中をみて学びました。
支援員の業務を一言でいうなれば「調整」。
俯瞰し、間に入り、ときに悪役も厭わない。
こういう役割は距離が近すぎると難しい。
地域外に住んで正解という伏線はここで回収されるわけです。
【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構 地域復興支援員 臼井菜乃美(第4話)
078号 2024/1/9
仮設住宅の保存
新潟県中越大震災復興基金については、いずれ詳しいお話ががあると思いますが、
『記録・広報事業「震災の記憶」収集・保全支援』が基金メニューとして立ち上がりました。
新潟県立歴史博物館や長岡市文書資料室、小千谷市図書館などとこの事業を使って、
被災地連携企画展など実施しました。
これらの事業の積み重ねが、中越メモリアル回廊の下地を作ったとも言えます。
さて私が担当した最初の事業といってよいのが仮設住宅の保存でした。
もともと歴史的建造物の保存・活用を大学での研究テーマとしていましたが、
築2年の建造物保存に関わることになるとは思ってもいませんでした。
たぶん私の仲間内でもこれほど新しい建物の保存を行なった者はいなかったはずです。
中越地震の操車場跡の仮設住宅団地には、仮設集会所にケアセンターも
設置されていましたので、併せて仮設集会所も残すことになりました。
保存された仮設住宅は兵庫に一例あったものの、前例が少なく、
どのように残していくのか、残してどう活用するのか、検討することがたくさんありました。
平井先生からはメモリアル施設が完成するまで、
視察に来た人たちを受け入れるためにも必要になると考えをお聞きしていました。
実際仮設住宅の見学は、人が住んでいる状況を見学するわけにもいきませんし、
モデルハウスのように見学するために仮設を立てている場所もその時には
知る限りありませんでした。
実際に新潟県中越沖地震が発生した際には、被災者が、この保存した仮設住宅の見学に訪れ、
仮設住宅の住民が案内することもありました。
この保全した仮設集会所と仮設住宅は、多世代交流館になニ~ナに
活動の拠点として活用していただきました。
活動に必要な備品等も集会所に必要な展示資料として用意しました。
ここでの子育て世代の活躍を見て、スタッフと意見交換をできたことで
その後の活動に大きな影響を受けています。
【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第4話)
(元中越メモリアル回廊担当職員)
077号 2024/1/8
県災害対策本部始動(その2)回り始めた支援の歯車
本部会議は波乱の幕開けとなったが、災対本部の組織体制整備は着々と進んでいた。
通常の県庁組織とは別に、被災地支援に特化した複数の班を災対本部内に設置し、
県庁内各課から職員を引き抜いて災対本部に常駐させて24時間体制で支援にあたる。
例を挙げれば、避難所等への食糧支援班や物資支援班には、
それぞれ農林水産部や産業労働部の職員を中心に班が編成された。
それと同時に各被災市町村の災対本部にも県から職員を派遣して、
プッシュ型の連絡調整体制を整えていった。
このように災対本部に配置された職員は、
通常業務と並行して災害対策業務にあたることになる。
今で言えば「二刀流」ですね。
かなり過酷な勤務状況となったが、職員は皆よく頑張ってくれていた。
災対本部会議も冒頭の知事挨拶程度までを報道公開し、
その後はクローズ(報道退室)での会議となり、
知事との応答も部局長に加えて実質的な担当職員の出番も増えて議論が回り始めた。
そして、会議終了後に知事が報道取材に応じるという、
今もよくニュースで見られるスタイルとなり、落ち着きを取り戻していく。
大混乱の中、いろいろ失敗もあったが、災対本部の歯車は急速に回り出した。
組織を整備し、適材適所に人員を配置し、
ミッションと情報を与えてボタンをポンと押せば、
半ば自律的に課題解決に向かって動き出す。
「お役所」のよい面が発揮された場面だったと思う。
【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第3話)
076号 2024/1/7
中越地震、その時何が(その2)
幸運なことに、支社が入っているDNビルは電気も水道も支障がなく、
通常通りの業務が可能だった。
支社のメンバーに携帯で連絡し、安否確認と同時に、
被災状況次第ではあるが可能であれば出社して欲しいと連絡する。
明日からの業務と報道のバックアップ体制をどうするかが課題だった。
結果的に支社長以下5名全員が集まり、明日からの体制について協議を重ねた。
長岡支社には全国から多くの取材班が集まることが予想されるため、
食料と水の確保を最優先に手配することになった。
たまたま支社の隣のテナントが空いていたため、急遽借りられることになった。
ガランとして何もない部屋に貸布団を20組ほど運び入れ、休憩場所にすることができた。
取材班は徹夜での取材が続くため、仮眠できる場所が必要だった。
自分も1995年の阪神淡路大震災の応援取材に入った際、
神戸港近くの事務所の床に毛布を敷いて1週間余り寝泊まりしていたことを思い出す。
まさに着の身着のまま、薄汚れたワイシャツでニュースのリポートをしていた。
大災害の時、テレビは朝から深夜まで番組の放送が切れ目なく続く。
現場の記者は睡眠時間が殆ど取れなくなってしまうのだ。
【執筆】株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第2話)
(元株式会社TeNYサービス 取締役)
075号 2024/1/6
中越地震と私(その3)
翌朝は浦瀬経由で長岡に入った。
蒼紫神社の一の鳥居が倒れていた。
妙見堰まで来たが、千葉県警の若者約20人が道路に広がり侵入を制止している。
自分は学校職員で、児童の安否確認をしに行くと告げたが、
「とにかくこの先に人を入れないようにと指示されている」とのこと。
小千谷は一体どうなっているのか。
一度引き返し越路橋から左岸に。
道中至る所で路面が割れ、電柱が傾き、電線が垂れ下がっていた。
交差点の中心に向けて信号機が引き抜かれたヒマワリように倒れていた。
どうやってここまで来たのか市民会館前で鳩山由紀夫氏が交通整理をしていた。
心配していた校舎は窓の1枚も割れていなかった。
新築当時の38豪雪でも耐荷重をオーバーする中頑張ったという校舎。
最後の大仕事だったのではないか。
参集した10名ほどの職員は市外からの通勤者ばかり。
市内の職員は、それどころではなかったのだろう。
校舎内外の記録写真を撮るとともに、当面休校の旨、画用紙にマジックで書き、
町内の掲示板に貼って回った。
発災翌日夕刻には福島から電源車が到着し、学校の明かりだけは付いた。
学校だけだが、それでも暗闇に光があることで少なからずほっとしたと
後日地域の方から伺った。
【執筆】前見附市立見附小学校長 前日本安全教育学会理事 松井謙太(第3話)
074号 2024/1/5
長岡市災害ボランティアセンターの運営~災害ボラセンの基礎を築いた36人~
10月25日(月)早朝に、関係機関、各種マスコミに対し、
正式に災害ボラセン設立について情報を発信することができた。
ところが、情報発信したばかりであるにも関わらず、時間の経過とともに、
不思議に1人、2人と人が集まってきた。
そこで、「なぜ、ここを尋ねたか」と聞くと、ほぼ全員が、
「自分では何ができるかわからないが、被災者のために何かをしたい。
ここに来れば、何かできることがあるのではないか」
という期待から集まってきたことを知った。
おそらく、ガレキの後片付けなどの作業活動をイメージしてきた者が多数であっただろう。
しかし、ボランティアのコーディネート行うために、
まずは、災害ボラセンの組織、機能を作り上げることが急務であるため、
この日集まった36人には、災害ボラセンを作り上げるボランティアを依頼した。
災害を契機に初めて会う人たちではあったが、受付や電話対応等を担ってもらい、
各自の責任感と連携する姿は目を見張るものであった。
誰一人文句を言うこともなく、黙々と災害ボラセンの基礎を作っていただいたことに、
ただ感謝するのみであった。
【執筆】長岡市社会福祉協議会 本間和也(第3話)
073号 2024/1/4
大変だぁ 横井戸が枯れる!?
雪国には長い冬を乗り切るためのさまざまな知恵が受け継がれています。
横井戸を利用した融雪もそのひとつ。
井戸というと地面に垂直に掘って地下水を吸い上げるのが一般的ですが、
横井戸は山の斜面や崖に水平方向に掘るもの。
その横井戸からの地下水は冬場、家の周辺に引いて雪を解かすのに活用されてきました。
しかし、中越地震による断層の動きが地下水に影響し水脈が変わってしまったのか、
地震後全く「地下水が出ない!!」という事態になったところが多くあります。
掘る場所を変えても地下水が出ず、横井戸をあきらめたという方もいます。
あるばっちゃんは「うちは幸いなことに新しい横井戸から地下水が出た」と言います。
横井戸はポンプなどの動力を使わず、たっぷりの水が確保できるため経済的にも助かるそうです。
「この水があるから冬でも年寄りふたり、この場所で暮らしていける」と…。
地下水の温度は年間を通してほぼ一定です。
夏にはトマトやキュウリ、スイカを冷やすにも使っているそうです。
【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構川口サテライト 地域復興支援員 佐々木ゆみ子(第3話)
072号 2024/1/3
「子育て支援」の枠を超えた活動へ
今となっては、地震があったからこそ、
私たちは「子育て支援」の枠を超えた活動が始まったと思います。
「助けて!」「いいよ!」といえる関係性が、個人もグループも地域も、
市民・企業・行政など分野の壁も超えて必要だという認識が強まったこと、
少しずつでもでき始めていることが、
東日本大震災の時に長岡で協働で立ち上げた「ボランティアバックアップセンター」や
2012年に制定された「市民協働条例」に繋がっていったのだと思います。
当時私の足元でハイハイしていた次男は間もなく20歳になります。
子どもたちの成長を改めて振り返り、私も団体も、周囲の人たちも、
生活にかかわるすべての存在が共に育ちあっていると感じます。
これからもこの経験を忘れることなく、皆さんと一緒に、
今まで以上にお互いを知り、認め合い、協働していくことで、
この子どもたちが「ここで生まれて、ここで育ってよかった。幸せだった。」
と誇りに思えるまちを一緒に創っていきたいと思います。
そして、それが全国からいただいたご支援にこたえることだと思います。
【執筆】NPO法人多世代交流館になニーナ 副代表 佐竹直子(第3話)
(当時は代表)
071号 2024/1/2
食べ続けると
国道17号線では、川口町和南津でトンネル内部が崩落し、
関東と新潟を結ぶ物流ルートが遮断され、被災地では水や食料が不足しました。
初期のレスキューフーズは、味付けご飯である栗五目ごはん(缶詰とレトルト)でしたが、
毎日続けて食べると飽きるという声が届くようになりました。
また、救援物資の菓子パンも甘い味のものは、食べ続けることができない
という声が聞こえてきました。
そこで、避難生活に関するアンケートを会社で夜に作成し、
避難所から出勤する同僚に依頼することができました。
災害時の食は、漠然と1日か2日食べて、3日目には元の生活が始まるのでは
というイメージをもっていましたが、避難所生活が続く被災者という食べる側の意見を
集めることができました。
これらの体験と調査から、主食には「白いごはん」が求められていると分かり、
2007年パックご飯「白いごはん」シリーズの開発につながりました。
(つづく)
【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第3話)
070号 2024/1/1
謹賀新年2024のご挨拶
新年、明けましておめでとうございます。
寒波とともに2024年の新年を健やかにお迎えになられたことと思います。
20年前、新潟県中越地震の被災地でも、クリスマスから降り出した雪景色のなか、
多くの皆さまが先の不安と復興への思いの新年を、
仮設住宅や仮住まいで迎えられたと思います。
今年はそれから20年目のお正月、
皆さま各々の20年の時の流れの速さと世の中の変化の大きさをお
感じになっておられるのでは、と拝察いたしております。
特に山古志の皆さまは、全村避難で長岡に移動され、
避難所から長岡ニュータウンの仮設住宅に移られての雪中のお正月であったと思います。
そして4月の長岡市との合併を控え、不安の中にもどんな復興をしていくべきか、
皆さんで語り合い、夢を描き、希望を胸に秘めての新年ではなかったでしょうか。
仮設住宅は集落ごとに団地をつくるようにまとまり、各々に集会室を配置し、
10年後を夢見て復興の蕾を育て、みんなで夢を共有するキックオフになり、
合併前に復興の基本をまとめられたのが、20年前でした。
それから20年。今年のお正月を、今から10年先の震災30年目を目指して、
新たな夢を、希望を描き、その実現に向けてみんなで語り合い、
目指すべき夢と希望を共有するキックオフにしませんか。
中越防災安全推進機構は、今から10年後にどんな中越を目指すのか、
その夢を語らい、未来を皆さまとともに切り拓いていく、
そのお手伝いをさせていただければと考えています。
10年後の中越をどんな街にどんな集落にするか、
今こそ“夢をみんなで語り合い、描いてみませんか”。
みんなでそんな初夢を見てみましょう!
<追伸>
能登半島で大きな地震があったようです。
地震はなんの前触れもなく突然襲ってきます。
中越でも強く揺れたようです。
やはり備えは常にしておかないといけないですね。
皆さんのご無事を祈念しています。
【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第4話)
(新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)
069号 2023/12/31
一路、長岡へ・・・本間さんとの出会い
日本シリーズが終わりビールかけを始めた異常な日本で、
「今動かなければ」という思いで、中越を目指すことになった。
といっても当時は福祉施設職員だったので、仕事の都合をつける必要があったが、
当時の施設長が新潟県出身ということもあり、理解は早かった。
しかも有給休暇を使ってではなく、業務としての現地入りを英断してくださった。
自分の現地入りするミッションは大きく2つ。
一つは、自分が勤める障害者施設と同じ種別の施設を訪問し、支援の必要性を判断すること。
もう一つは静岡から送り込むボランティアの活動現場を調整することだった。
事前に調べた障害者施設をアポなし訪問。
現状についてヒアリングをし、緊急の支援の必要性は低いと判断して、長岡市を目指した。
そして、長岡市社会福祉協議会を訪問。そこで出会った本間さん。
あの時の本間さんの疲労困憊した姿は今でも忘れられない。
最近本間さんと再会し、当時の話を笑顔でできたことはとても喜ばしいことだった。
次回は、阪神・淡路大震災以来の大規模な地震災害での
災害ボランティアセンターについて触れていきたいと思う。
【執筆】災害対応NPO・MFP 代表 松山文紀(第2話)
068号 2023/12/30
人生の転機となった中越大震災(第1回)
その日私は勤めていたイベント会社の仕事で、
地元の吉谷小学校の創立130周年記念でレンタルしていた椅子を引き上げ、
2トントラックを運転していた。
市内のベイシアの脇の道路を走っていた時に、トラックが大きく左右に揺られた。
「参ったー、パンクか」
次の瞬間、ベイシアの外の通路の天井が大きく崩れ落ちるのが見えた。
するとカーラジオから中越地域で大きな揺れを観測したとの第一報。
しばらく車を止め、会社に電話するが当然繋がらない。
「休みも溜まっているしこうなったら有給休暇だ」と自分で勝手に判断し、
自宅へと引き返した。
かなり遠回りはしたが、自宅に帰ると家族は全員無事。
余震が頻発するので家の中には入れない。
学校の校舎も耐震ではないため入場許可が出ないようだ。
先生方は式典の礼服のまま、グラウンドに仮設テントを設置してくれた。
高齢の母親はそこで休ませることにして、私たち家族4人は車の中で一夜を過ごした。
外は星空がきれいで、ヘリの音だけが騒がしく鳴っていたのを覚えている。
(つづく)
【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第1話)
元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)
067号 2023/12/29
中越大震災発生!消防士だった私の体験談①
私は当時、長岡市消防本部に勤める消防士だった。
風邪で熱(38度を超えてたような…)があったが、
両親と夕飯を一緒に食べる約束をしていたので
妻と生後2か月の子どもと陸上競技場側の実家へ。
両親は不在。食事前にシャワーを浴びていたら時に地震が発生!
幼いころから刷り込みや学校での避難訓練等のお陰で、
これまで地震時には、机の下や硬い物で頭を守るなど、
揺れたらすぐに身を守る行動ができた。
しかし、あの日はこれが地震だと理解するまでに数秒かかるほど、
体験したことのない揺れで、動けない。
理解した瞬間、「家族が!」裸のまま、必死に這うようにしてリビングへ。
すると、妻が生後2か月の子どもを抱きかかえ、食器棚の前で動けなくなっていた。
声がけをして移動を促してから、体感で2、3秒…。
その食器棚が倒れた。
あと数秒遅かったら…と、血の気が引いたのを今でも鮮明に覚えている。
【執筆】NPO法人ふるさと未来創造堂 常務理事兼事務局長 中野雅嗣(第1話)
066号 2023/12/28
第3話 自衛隊 魚野川の湯(その2)
関越道対面通行にて開通の一方が流れる。
土曜日の午前3時、ワンボックスカーの後部座席をフラットにして布団を敷き
子供たち3人を乗せて実家に向かう。
朝には川口町に着いて子供たちの顔を私の両親・家内の両親に見せ、
その日の夜中に東京に戻る行き来が雪の降るまで続いた。
回を重ねるごとにインフラは整備され徐々に往来は楽になった。
ある時「川の堤防の向こうに自衛隊の風呂が出来たすけ、
おめぇたちも入ってこいや」と言われた。
災害支援のための風呂を「ある意味で部外者」である私たち家族が
利用することに気が引けたが、「いいお湯だから入ってこい」と何度も進められた。
鉄パイプと厚い布でできた大きな湯舟に、
魚野川から汲み上げられた水を移動式ボイラーで沸かしたお湯がたっぷりと満ち満ちていた。
立ち膝でないと頭が沈んでしまう深い湯舟だった。
「ありがたい」の一言、タオルで汗と涙を拭った。
妻の医療支援部隊潜入計画には後日談がある。
国道17号線は余震の度に通行止めになった。
迂回路を走行していると偶然にも医療支援の車とすれ違った。
「私もあの車に乗りたかったなぁ~」「なんで乗せてもらえなかっただろう」
とさんざん文句を言っていた。
長年の経験からこうゆう時には「黙っているに限る」ことを知っていた。
冬を越えて川口町への帰投計画が始動する。
【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第5話)
065号 2023/12/27
第3話 自衛隊 魚野川の湯(その1)
ようやくたどり着いた川口町、
近所のスーパーは倒壊し、幼なじみの家は2階の床が抜け柱だけで立っていた、
実家は隣の大きな家の倒壊に巻き込まれかなり傾いていた。
「ここに居てもできることはないから、早く帰れ。俺たちはなんとかなる。」
と父に言われた。持ってきたわずかな水と食料を渡し引き上げることにした。
長岡に向かう途中、妙見の対岸を通過。
空中を舞う幾つもののヘリコプター、崩れ落ちた大きな岩のがれきの間に
オレンジ色の作業服がいくつか見えた。
後に、2歳の男児が土砂の中から救出された瞬間だった事を知る。
子を持つ親として母の無念を想う。
奇跡的というが冷たく暗い岩の闇で子を想う母に涙を禁じ得ない。
翌日、東京に戻る支援部隊に合流してお昼前に当時の勤務地である新宿に着いた。
温かいものが食べたくてラーメン屋でラーメンを食べた。
お昼のニュースで中越地震の様子が流れる。
「俺、今日ここから帰ってきたんだよ」と一言、「あらぁ~大変だったでしょ」と一言、
この後に続く大きな災害の始まりに位置する中越地震のころの民意は
まだ幼く遠いところの出来事だった。
家に帰ると、当時大きな病院の看護師だった妻が何とかして自分も
医療支援部隊に潜り込めないものかと画策奮闘していたが、願いは叶わなかった。
「私も小千谷にも川口にも行きたい」と何度もせがまれた。
子供たちは小学生、交通手段が定まらないうちは無理を押しての帰省はリスクが大き過ぎた。
(その2へ続く:明日配信)
【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第4話)
064号 2023/12/26
被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(4)
-雄太ちゃん救出の奇蹟とご家族の英断-
地震による土砂崩れで、母子3名が生き埋めになった妙見の現場で、
2歳の皆川優太ちゃんが4日後救出されるという奇跡が起きた。
強い余震が続き、更なるがけ崩れによる二次災害が発生しかねない状況の中、
東京消防庁のハイパーレスキュー隊による決死の活躍のおかげであった。
ところが、現場が長岡市であったため、
救助活動の法律上の責任者は長岡市長である私であった。
雄太ちゃん救出後、現場では母子2名の生体反応がなく絶望と判断されたが、
救出作業の中止の判断をする立場となった。
総務省消防庁長官に相談したところ、このような救出作業の中止の判断が
一番難しいとのことで、ご遺族の意向を尊重することとなった。
さっそくご遺族のもとに伺い事情を説明したところ、
二次災害を起こすわけにはいかないので中止してほしいとのご返事をいただいた。
ご遺族の苦渋のご決断に頭が下がる思いであった。
その意を受けて中止の判断をしたのである。
余談だが、中止した途端にテレビ中継を見ていた全国の方々から、
長岡市に対する抗議の電話が殺到した。
現場の緊迫感は伝わりにくいものだということを実感した。
【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第4話)
063号 2023/12/25
竹田に帰れる、その時父は
大きな揺れから二泊三日、ガソリンスタンドで地震対応をしている中、
地元の消防団が給油に来ました。
その時、はじめて自宅の父が無事であることがわかりました。
25日には交代のスタッフも次々駆けつけて、引き続きをして帰宅することができました。
すっかり変わってしまった景色の中を帰宅すると、散らかった自宅を片付ける父の姿。
顔を見るなり「もうすぐ焼酎が無くなる」との報告。
「オヤジらしいなあ」 とホッとしたことを覚えています。
そんな父に自宅を任せて自分はガソリンスタンド勤務の日々。
自分が留守する間には友人から沢山の電話があったようです。
そしてしばらくすると何故か焼酎が次々と届きはじめました。
どうやら父は「大丈夫だけど酒屋がやってなくて焼酎が買えない」と
電話の度に答えていたようです。
そんな父を思い出すと「仕事ほったらかして帰ればよかった」と後悔しています。
(つづく)
【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第4話)
062号 2023/12/24
中越地震は、どんな地震だったのか?(第5回)
一方、壊滅的な被害となった山古志村(当時)では、
緊急避難していた長岡市内の公共施設(多くの場合は学校の体育館)で集落再編を実施します。
あちこちの避難所におりた住民たちを、14集落毎に再編しているのです。
山古志住民の帰村には、幹線道路の復旧に加え、村内14集落を結ぶ道路、
日常生活に不可欠なライフライン(ガス・水道・電気等)が整備される必要がありました。
そのうえ住民の安全が確保されるまでには、早い集落でも2年余、
被害が甚大だった集落は3年余の時間を要するだろうと見積もられました。
そのため基盤整備がなされるまでの間、
長岡ニュータウンに建設された仮設住宅で暮らすこととなりました。
当時、山古志村の村長だった長島忠美氏は、ここでも山古志住民を分散させることなく、
しかも集落毎に集約したいと申し出ます。
この判断が後々、非常に大きな意味を持つことになります。
山古志村は、平成17年豪雪のなか、長岡ニュータウンで
「山古志復興ビジョン」の検討を開始します。
また、民間の有志により構成された検討会においても、山古志再生に向けた構想
「山古志復興新ビジョン」(以下「復興新ビジョン」)の議論が開始されます。
全村民を対象に、アンケートを基本とする意向調査が実施されます。
アンケート結果を受けて、「山古志復興ビジョン」が取りまとめられます。
前面に打ち出されたキーワードは、「帰ろう山古志へ」でした。
【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第5話)
(公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)
※山口壽道さんは12月16日にお亡くなりになりました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
なお、山口さんからは本メルマガの原稿をすべて執筆いただいております(全15話分)。
今後も引き続き配信させていただきます。
061号 2023/12/23
北仮設と足湯(その1)
今ではすっかり一般的になった足湯ボランティア。
初めて会った学生から「宮本さん、足湯ボランティアって知ってますか?」
とたずねられて感慨深い思いをすることがあります。
この足湯ボランティアは、阪神・淡路大震災のときに始められ、
中越地震でリバイバルしました。
大学生だった私は、同級生と一緒に、夜行列車にゆられて大阪から中越に通っていました。
まず活動したのが、操車場跡北仮設です。
中越地震では、KOBEの教訓をいかし、仮設住宅に入居の際は、
もとのコミュニティに配慮したことが知られていますが、
北仮設には長岡市内でバラバラに被災した方々が入居されていました。
仮設をまわったときに、隣近所の人の名前も知らない、
集会場があるのも知らないという声を聞き、
当時現地拠点としてお世話になっていた中越復興市民会議の稲垣文彦さんに相談したところ、
「足湯でもしたらいいんじゃない?」とのアドバイスを受け、
まずは足湯の伝道師、吉椿雅道さんを探すことになります。
【執筆】大阪大学大学院人間科学研究科 准教授 宮本匠(第1話)
060号 2023/12/22
0は「レイ」or「ゼロ」? 7は「シチ」or「ナナ」?
被災地の真ん中にあるコミュニティFMからの災害放送。
それは“リスナー=被災者”を意味する。
生活情報の中には電話番号や時間など数字が多く使用される。
当時リスナーからの問い合わせで、数字の聞き間違いも多くあった。
0は「レイ」か「ゼロ」か。正確な読みは「レイ」。
090「レイ・キュー・レイ」、0258「レイ・ニー・ゴー・ハチ」となるが、
実は普段あまり使わない表現だ。
7は「シチ」か「ナナ」か。日数や日付、時間、人などの助数詞が付く場合は
「シチ」になるようだが、「シチ」は「イチ」と間違いやすい。
当時FMながおかではあえて、0「ゼロ」と7「ナナ」を使用した。
その方がわかりやすいから。当然現在の通常放送では使用しない。
中越大震災がきっかけで始まった「地球広場多言語放送ワールドカフェ」の
「やさしい日本語」にはその名残があり、電話番号を繰り返し伝えるときに
1回目「0258」を「レイ・ニー・ゴー・ハチ」、2回目は「ゼロ・ニー・ゴー・ハチ」
と読んでいる。
リスナー全員が被災者になるのがコミュニティFM。
今ではその答えで良かったと思っている。
【執筆】FMながおか 常務取締役放送局長 佐野 護(第2話)
059号 2023/12/21
(災害発生直後は)「救援物資は原則受け取りません」宣言(その1)
中越地震発生から2年余りたった2004年11月の読売新聞夕刊のトップ記事に、
長岡市が「災害発生直後は不特定多数の個人からの救援物資を受け入れない」方針を
新たな防災計画に盛り込むことを検討していることが載った。
「せっかくの〝善意〟に対して何てことを!」「〝善意〟をちゃんと生かすべき!」
長岡市危機管理防災課長として取材を受けた私は、こうした反応を覚悟していたが、
意外にも、「被災地の実情がわかった」「救援物資のあり方に一石を投じるものだ」と
新聞の記事を読んだ人たちや識者から理解を示してくれる声が多く寄せられた。
記事の直後、読売新聞本紙「論点」に、~〝善意〟が空回りしてしまわないために~と
全国の多くの皆さんから支援を受けた被災地としてその教訓をきちんと発信したいという、
当時の森市長の思いが掲載されたことも大きな力となった。
中越地震発生から9か月余り経って危機管理防災課長に就任した私が目にしたのが、
市内の公共施設や民間から有料で借りた多くの倉庫の中に積まれたままになっている
全国からの救援物資の箱の山であった。
なぜ、そのままになっているのか?
水、缶詰、粉ミルク、オムツ、衣服…、まさに送り主の思いが伝わってくる〝善意〟が
郵政省の〝善意〟で無料扱いとなった「ゆうパック」の箱に混在して詰まっている。
当時分別して活用する余裕がなかった救援物資には、期限切れとなった食品も多い。
缶詰を処分するには、「缶を開けて中身を取り除く、ラベルをはがす、缶やふたを洗う」
という作業が必要となる。
考えるだけで取り掛かる気がうせてしまうほどだ。(続く)
【執筆】公立大学法人長岡造形大学副理事長 河村正美(第1話)
(前長岡市危機管理防災課長)
058号 2023/12/20
被災地に寄り添うということ…
地震発生から1週間後、私は初めて被災地に入りました。
被災地から送られてきた悲惨な映像の中で特に印象に残ったある被災者に会うためです。
印象にのこっていた人…
それは中越大震災で唯一発生した火災により家が全焼してしまった被災者でした。
その男性は山が崩れ、自宅が全焼してしまった風景を見て
「地獄の風景だ」とカメラに向かって答えていました。
私は何かに突き動かされるように男性を捜しにでかけていました。
男性は当時、総合体育館に奥様と2人で避難されていました。
ご挨拶をしたあと、立入規制が出されていた現場に同行させていただき、
当時はどんな様子だったのかなどを取材させていただきました。
ご自身が大変な中でも取材に協力していただき、
私たちマスコミには「何ができるのだろうか」「何を報じるべきなのか」
自問自答する日々が続きました。
その中で、私が出した答えは、
被災地で暮らす人々が「今、何に困り」「何が必要か」をきちんと取材し、
報じることなのではないかと自分なりの答えを出しました。
男性とは震災から1か月、半年、1年と仮説住宅に入居し、
家を再建するまでを取材させていただきました。
仮説住宅で新年にむけて作るという手作り「こんにゃく」をごちそうになった時の味が懐かしい。
【執筆】BSN新潟放送 メディア本部報道制作局 報道部長 酒田暁子(第2話)
057号 2023/12/19
川口町災害対策本部日記(3)
県の連絡員として、川口町災害対策本部のお手伝いをした。
被災した集落や避難所を回り、支援ニーズや支援の進捗状況を確認して県に報告する。
そんな毎日を過ごしていた。
一番の楽しみは、被災地にいてもやっぱり食事だった。
役場前のテントで、地元のお母さん達が少ない食材を色々と工夫して作ってくれる毎日の食事、
素朴だがほんとうにおいしかった。
自衛隊が提供してくれたレトルトパウチの秋刀魚の塩焼き。
こんな便利なものがあるんだ。
あんまりおいしくて日々の献立を毎日県に報告していた。
一日の終わりは自衛隊が河川敷に作った野営のお風呂。
若い隊員が頻繁に湯加減を確認に来る。
「ありがとう、ご苦労さん。」
停電で真っ暗な街にもどりながら、明日のエネルギーの充填を完了する。
【執筆】公益財団法人新潟県スポーツ協会 専務理事 細貝和司(第3話)
(元新潟県防災企画課長)
056号 2023/12/18
全国の雪研究者あつまれ(第3回)
そうだ!雪の研究仲間が日本中に大勢いる。
この焦りと不安な気持ちを訴えよう、そう思ったのです。
地震被災地の無残な風景に雪景色が重なったその日、
10月30日の夜、日本中の雪の研究仲間にその思いを発信したのです。
最初に返信を下さったのは、大学の同僚教授でした。
『大学の雑事は誰かがカバーするからしっかりおやりなさい』という励ましの言葉。
次に反応して下さったのは、既に定年退官されている大先輩でした。
何をどのように進めたらよいか、何に注意したらよいか、
具体的なコメントをくださったのです。
大学の助手に成りたての頃に大変お世話になった大先輩の、
驚くべき速さの反応に驚くと同時に大変感激しました。
そこからは、次から次へと同じ思いを抱いていた研究者から
賛同の声や活動参加の申し出が相次ぎました。
その反響をうけ、メール発信の2日後の11月1日に、調査委員会を発足させること、
その第1回を翌日開催することが電光石火の速さで決まりした。
委員会旗揚げのメールは再び日本中の雪の研究者に配信され、
受け取った方からさらに他の関係者へと次々と転送され、
半日足らずの間に日本中を何週も駆け巡ったのです。(つづく)
【執筆】長岡技術科学大学 教授 上村靖司(第3話)
(新潟県中越大震災20年プロジェクト 副実行委員長)
055号 2023/12/17
地域復興支援員のこと(その3)
まずは地域を知ること!と先輩の後をくっついて回る日々。
お茶会について行ったり、地域のキーパーソンを紹介してもらったり。
「やまこし復興交流館おらたる」は、長岡市の支所、診療所、体育館が隣接しており、
コミュニティーバスの待合所でもあります。
地域の人も来るし、地域外から山古志を訪れた人が最初に立ち寄るという場所なので、
そこにいるだけでも沢山の方と接する機会があり、
様々な視点から地域のことを知ることが出来ました。
ツアーを企画することになったとき、自分の中で絶対ぶれないテーマを決めました。
山古志の魅力は地域の暮らしにある。
だから、厳しい自然のこと(地震を含む)や、食や産業を知ってもらえる内容にする。
できれば、地域の方が「今」やっていること、
これからやりたいことを話せるような機会を作ろう。
そうしたら、参加してくれた方が今後も山古志を訪れてくれるのではないか。
そんなことを思っていました。
【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構 地域復興支援員 臼井菜乃美(第3話)
054号 2023/12/16
今考えて思うこと(第3話)
勤務校である太田中学校には、発災後毎日通いました。
避難所となっていたため避難された方の支援、避難している生徒への対応のためでした。
教職員の中には自宅が全壊し、子どもの面倒を見たり父母の介護のため来られない方もいました。
冷静に考えられる今は、それが当然だと思いますし、そうすべきだと思いますが、
当時はどこか批判的に見ていた気がします。
窮地に陥った時、いかに客観的に冷静に考えられるかは
日頃の学びの中でしか培われないものと考えます。
また、生徒の精神状態が心配で時間をかけて生徒と話しをしました。
当時は根拠もなくそういった対応していましたが、
後に心理学を学ぶ中でその対応が適切だったことが分かりました。
ちなみに、その話を聞いたことが後に私自身を防災教育に向かわせた原因ともなります。
なぜなら、生徒が話す地震発生時の行動があまりに危険で、
本当に運だけで命を繋げられたのだと分かったからです。
一生のうちに遭うかどうか分からない災害であっても、
基本的な対処法を身に付けさせることは教育の使命だと強く感じました。
【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第3話)
(前三条市立第四中学校 校長)
053号 2023/12/15
県災害対策本部始動(その1)泉田劇場波乱の幕開け
10月23日夜、県の災害対策本部会議が開催された。
前日、花束と拍手で見送られた平山知事が任期最終日の24日を前に
再び登庁することとなった。
25日未明、県庁知事室で平山前知事から泉田新知事への引継ぎが行われる。
当時の私の手帳には、「新知事登庁 9:50」とのメモがあった。
平時なら、その後に形式的な引継ぎとなったのであろうが、
未曾有の大災害に直面した若き新知事の意気込みを窺わせる深夜の一コマとなった。
かくして泉田知事のもとでの災害対策本部が改めてスタートすることとなる。
しかしこれが後の復興まで一貫した泉田イズムを象徴する波乱の幕開けとなった。
全面公開で行われた対策本部会議は大勢の報道陣や関係職員が取り囲む中、
知事と各部局長が一同に会して開催された。
冒頭から知事の独壇場となり、避難所の運営状況をはじめ被災者への緊急支援について、
知事から矢継ぎ早に対応を求められる。
各地の状況把握や県庁内の支援体制整備が十分ではない中で、
いかにベテランの部局長であっても、ひたすら頭を低くしてやり過ごしかないという
重苦しい状況の中で会議は進んだ。
なんとか会議は終了したものの、県幹部の憔悴した表情と、
顔なじみの記者さんの「皆さんよく耐えてますね。」という一言が印象深かった。
【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第2話)
052号 2023/12/14
中越地震、その時何が(その1)
テレビ新潟本社で開催したセミナーが終わり、講師の方を新潟駅まで送った。
夕刻、すっかり暗くなった新潟市の自宅に帰宅した直後、突然大きな揺れに見舞われた。
テレビで速報が流れて、中越地方を震源とした大地震の発生を確認。
非常事態マニュアルを思い出し、長岡支社勤務の自分も急ぎ本社に戻る。
通常編成の番組を飛ばして特別番組編成となるため、報道フロアは大声が飛び交い、
情報収集で錯綜する状況となっていた。
報道局長から「直ぐに長岡支社に戻ってくれ。但し、新幹線も高速も止まっている。
国道8号は大渋滞だ」との情報。
渋滞に巻き込まれずに長岡へ戻るにはどのルートで行けばいいのか思いを巡らす。
その結果、岩室、弥彦を抜けて分水経由で信濃川沿いの土手を行こうと判断する。
それが大正解だった。ほぼノンストップ、1時間足らずで長岡市内に入ることができた。
停電の影響か、辺りは真っ暗で、学校の体育館と思われる場所だけが明るくなっている。
長岡支社がおかれている長岡駅東口側のDNビル6階に入ると、既に同僚が1名駆け付けていた。
支社の机は引き出しが飛び出して倒れている。
数百キロはあると思われる金属製の大きな金庫が部屋の反対の端まで動いていた。
凄まじい揺れが襲ったことを物語っていた。
この日を境に、長岡支社は全国各局からの応援取材クルーが集まる最前線基地となった。
【執筆】株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第1話)
051号 2023/12/13
中越地震と私(その2)
発災からおよそ20分後、長岡の塾にいる中三の娘を迎えに見附を出た。
見附大橋は橋桁と路面の間に40㎝ほどの段差ができていて通行不能。
長岡まで通れるところを探りながら運転した。
街灯や信号機のついていないところも多く、道中は暗く静かだった。
会館青膳の前から進み表町交差点手前で車を降りた。
まいまい姫の像の周りにたくさんの中学生がいる。ここだな。
先生らしき方に尋ねると
「ここはT塾です。N塾の子供たちは向こうの集団です」と教えくれた。
学年・クラス別に分かれて担任を中心にまとまっていた。
さすが中学生、全体的に落ち着いた雰囲気だった。
この段階で娘のクラスでまだ親が迎えに来ていなかった生徒は二人だった。
発災時、娘の教室の生徒たちは、自主的に机の下に潜ったそうだ。
指示に従い出口に近い教室から順番に屋外に避難した。
学校での避難訓練が少なからず活きていたのだろう。
娘と見附まで戻ったものの、家族四人で夜半まで空き地に止めた車中で過ごした。
長岡までの道中の様子から、勤務先の小千谷まで行こうとは思わなかった。
同僚の携帯への電話もつながらない。
翌朝、明るくなったのを待って、
いくらかの飲み物、食料と着替えを詰めて小千谷に出かけた。
【執筆】 前見附市立見附小学校長 前日本安全教育学会理事 松井謙太(第2話)