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101号~150号


150号 2024/3/21

竹田元気づくり会議とかんじきウォーク

 

中越地震のあと被災地ではさまざまな地域活動が始まりました。

そんな中、竹田集落の今もつづく活動の一つが「竹田かんじきウォーク」

震災復興のワークショップで出たアイデアで

「冬の竹田の美しさを見てもらおう」というものです。

 

参加者には全て手作りの「しおり」「記念の木札」そして「記念写真」

お昼は「竹田のごっつおー」さらにお土産まで用意。

 

イベントの内容については、毎回自宅に集まって

缶ビール片手にニヤニヤしながらタクラミます。

 

かんじきウォークが始まった頃は

集落のばあちゃんたちにお昼の準備を手伝ってもらいました。

実は「ばあちゃんたちが集まるきっかけ」というのが大切なテーマ。

ですが最近はみんな年取って手伝ってもらうことが出来なくなりました。

 

震災から20年目、かんじきウォークはもちろん、

震災がきっかけのさまざまな地域活動が「やる、やらない」を含め、

新たな展開を考える時期になってきた気がします。


 【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第7話)

149号 2024/3/20

バトンを渡たす バトンを受け取る

 

震災から19年たつと、当時、地域づくりや復興に向けて

さまざまな活動に取り組んできた中心人物も同じように歳を重ね、

第一線から退くことが多くなりました。

ここで問題が…。次の活動につながる後継者探しです。

 

川口地域に上手にバトンがつながった例として「豆だ会」があります。

麹作り名人の丸山秀夫さんと味噌作り名人の小宮山豊彦さんが、

中越地震を機に味噌屋を廃業した方から3トンの木桶を譲り受け、平成17年に結成、

「あぐり味噌」を製造してきました。

木桶で仕込む味噌は温度変化がゆるやかなため、

ゆっくりと発酵・熟成し、独特の風味を醸す味噌となります。

 

80歳を超えたころから後継者探しをしていたふたり。

そこに現れたのが川口地域で発酵・熟成させ、

生ハムなどを製造販売している「みんなのハム」です。

 

ふたりの味噌作りの技を受け継ぎ、

昨年からの仕込みは「みなんのハム」が引き継いでいます。

木桶、寒仕込みと昔ながらの製法で作られる「あぐり味噌」は

道の駅 越後川口あぐりの里で販売。

夏頃に完売してしまうこともある人気商品になっています。

 

 【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構川口サテライト 地域復興支援員 佐々木ゆみ子(第6話)

148号 2024/3/19

中越大震災復興基金と中越防災安全推進機構(第2回)

 

中越防災安全推進機構は、その原資(人件費、活動経費等)を

「中越大震災復興基金」(以下「復興基金」)に求めています(注:設立当初)。

この中越大震災復興基金ですが、過去には例のない仕組みで制度設計されています。

 

新潟県知事を理事長に、激甚被災自治体の長、大学等の研究者や各界の民間有識者が

理事として参加して「財団法人」が設立されました。

財団の理事長である新潟県知事は、復興基金理事会で議論・議決された事業について、

行政は口を挟むべからずと厳命しています。

 

被災地にとっては極めて自由度の高い財源と言うことが出来ますから、

やる気が試される仕組みだといっても良いのかもしれません。

被災地住民は、従来の行政補助金の受け入れとは違って、

自らの足で多様な主体から英知を集め、事業を立案・提案するようになりました。

 

復興基金は、事業を推進するためのエンジンとして、

地域自立を下支えする装置となって行くなど、多くの教訓を残しています。


 【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第8話)

 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

147号 2024/3/18

青葉台3丁目自主防災会の歩み 話題(1) 町内会(自主防災会)発足の思い

 

私の住んでいる町内会は平成8年に「自分達の地域は自分達で護る」を合言葉に発足した。

これは何でも行政に頼らず、出来るだけ自分達で町内の課題を皆で協力して解決し、

自分達で不可能な事は行政や他機関へお願いする事を基本モットーに活動を開始した。

 

具体的には、町内の班構成は多くの人から町内の事を経験し理解してもらい、

協力してもらえるように、各班の世帯数は15世帯以内とし、1年交代とした。

又、班の世帯はお互い向かい合わせにし、屋外に出た時に挨拶等が行いやすくした。

 

行事も皆が集まって懇親が深まるよう全町内会員参加出来るバーベキュー大会や

総会の後の新年会やその他行事後の懇親会も企画し、融和を図るようにした。

 

町内会が発足して2年後の平成10年、

災害等が発生した時に対応する組織がない事が問題と認識し、

長岡市に相談の上、自主防災会をつくる事にした。

 

長岡市から最低限の機材と運営規約等の支給と指導を受け、防災倉庫をつくり、

防災活動を班長の役割として活動を開始した。

活動を開始すると、防災委員が毎年交替する班長兼務だと、訓練や打合せをしても、

次年度に打合せ時の反省内容が次年度活動に上手く反映されていない事が判明した。


 【執筆】青葉台3丁目自主防災会運営委員長(中越地震当時) 畔上純一郎(第1話)

146号 2024/3/17

山古志村支援チームの活動 山古志村役場長岡支所開設へ(その2)

 

支援チームは、市町村課から4人、平成の市町村合併を推進するために

市町村課から分離独立した合併支援課から1人の計5人で構成し、

うち1人は連絡調整要員として市町村課に残し、4人が現地に乗り込むこととした。

 

チームのミッションは2つ。

全村避難で喪失した山古志村役場の基幹的機能を避難先の長岡市内で回復すること。

もう1つは、当時、全国ネットで稼動したばかりの「住民基本台帳ネットワークシステム」の

役場サーバーから「暗号化装置」を回収してくること。

これが外部に漏れると全国のシステムに大きなダメージとなる。

 

ここまでとんとん拍子できたものの、具体的な作業スケジュールや手法は全く用意していなかった。

まずは現地の状況把握とニーズの聞き取りをして、その後は・・・なんとかなるさ。

今振り返ってみると復旧から復興まで、私は一貫して「なんとかなるさ」だったように思う。

兎に角立ち止まってはいられないのだ。

 

と言うわけで、まずは一人で長岡市役所と山古志村災対本部が置かれた長岡地域振興局へ出かけた。

挨拶を兼ねての情報収集であったが、市役所は勿論のこと、

長岡振興局にも長岡出身の職員が多く派遣されていて、さながら高校の同窓会状態となっていた。

お陰で顔見知りも多く、長岡出身の私としてはとても心強かった。

 

混乱した状況下では組織的対応より人間関係の方が有効である。

「なんとかなりそうだな」心の中でそう呟いていた。

次回は長島村長をはじめ、私の目に映った山古志村災対本部の様子をお伝えします。


 【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第5話)

145号 2024/3/16

農家レストラン多菜田 ~山古志虫亀集落~

 

中越地震の被災地を訪れた方は、山古志虫亀集落にある「農家レストラン多菜田」に

一度は訪れたことがあるのではないでしょうか。

 

震災の後、山古志を訪れる多くの支援者、工事関係者、ボランティアの皆さんに、

何かお礼がしたいと考え、母ちゃんたちが初めた小さな食堂です。

オープンから16年が過ぎ、母ちゃんたちも“ばあちゃん”になりつつありますが、

毎日元気に山のごっつぉを用意してくれています。

 

しかし2019年のコロナ禍では客足が伸び悩み、存続の危機に直面しました。

「お店を続けたい、残したい」という母ちゃんたちの努力と忍耐、

そしてクラウドファンディングを活用して資金を調達し何とか危機は脱しましたが、

高齢化、物価上昇、来客減少など、お店の経営は一筋縄ではいきません。

 

それでも、おいしい食事と温かい笑顔、楽しい会話で

訪れる私たちのお腹と心を満たしてくれる多菜田は

震災から20年を迎えようという今でも心を込めて営業中です。

 

「以前何度か食べに行ったなぁ」「久しぶりに煮物定食食べたいなぁ」と

多菜田のことを思い出していただけたでしょうか。

ぜひ、また訪ねてみてくださいね。


  【執筆】元多菜田の皿洗い係 山﨑麻里子(第1話)

144号 2024/3/15

中越地震の経験を活かす(2)新潟県中越沖地震

 

中越地震からわずか3年後、再び県内を大きな地震が襲う。

新潟県中越沖地震だ。

 

私は、今度は柏崎市の応援に入る。

4ヶ月前能登半島地震で応援に入った輪島市から、早速応援が来ていたのが印象的だった。

 

柏崎市での最初のミッションは、京都大学の林先生や新潟大学の田村先生が提案する

「被災者生活再建支援システム」の活用を柏崎市につなぐこと。

このシステムは中越地震の際に小千谷市で活用されたもの。

すったもんだの末に市は活用することを決定した。

 

私はその後、柏崎市の復興管理監として約2年間、

主に応急仮設住宅入居者の生活再建支援に取り組むことになったが、

このシステムの活用により、当時としてはかなりきめ細やかな支援ができたと考えている。

 

その後、このシステムの活用と市町村による家屋被害認定調査の応援を

セットで行うことが「チーム新潟」の定番となっている。


  【執筆】公益財団法人新潟県スポーツ協会 専務理事 細貝和司(第6話)

 (元新潟県防災企画課長)

143号 2024/3/14

雪で家が潰れてしまうかも・・・(第6回)

 

12月上旬にほぼ完成した仮設住宅は、

家を失い避難所で暮らしていた住民に大きな安心を与えました。

しかし、この冬を傷んだ家で過ごす決意をした住民の不安は解消されません。

 

屋根1坪の上に1トン、つまり20坪の屋根なら20トンもの雪の重さがかかる地域です。

完全に直せなくても良いから、せめて応急的な補強をしなくては、

冬に家がつぶれてしまうかも知れません。

 

プロによる補修が間に合わないなら、素人大工で何とか補強するか、

雪の重さが小さいうちにこまめに雪下ろしするしかありません。

でも雪下ろしは、毎年転落して亡くなる方がいるという危険な作業です。

傷んだ家の屋根で、心身ともに疲れきった住民が例年以上の回数雪下ろしをしたら、

いったいどれだけの人が事故にあってしまうのでしょう。

 

私たち雪の研究者の立場で、少しでも住民の不安を和らげることは何かできないか。

建築の先生もいますから、応急的な補強のやり方を教えることができます。

私自身除雪の事故の分析をしていますから、

除雪中に事故に遭わないような注意を投げかけることもできます。

 

再び、全国の研究者に呼びかけ、

大急ぎで住民向けの住宅対策や事故防止の資料の作成に取り組んだのです。(つづく)


  【執筆】長岡技術科学大学 教授 上村靖司(第6話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 副実行委員長)

142号 2024/3/13

地域復興支援員のこと(その6)

 

地域の方と話していた時、

「臼井さんは何で山古志にいるの?」と聞かれたことがありました。

 

中越大震災の復興支援で…と話すと、

「でも震災のことは忘れたいんだよね。これからのことが大事じゃない?」といいます。

その通りだなと思いました。

しっかり風化されて土になってしまえば、教訓は未来につながるかもしれないし。

 

今思うと、私が着任したころには

地域復興支援員やその役割を知らない地域の方々がほとんどだったのではないかと思います。

地震がなくても毎年の冬は厳しいし、中山間地域で田畑を耕すのは過酷。

夏になれば草は生え、冬になる前にやることがたくさんあります。

 

山の暮らしは忙しい。

その過酷さを乗り切る知恵や技、人との繋がりの強さが、

地震の時に生かされたのだと、地域の人が言っていたではないか。

この人たちは大丈夫。では、私は何が出来るのか。

 

山古志地域に着任して2年。震災から13年目の年、山古志を離れることにしました。


  【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構 地域復興支援員 臼井菜乃美(第6話)

141号 2024/3/12

山古志から能登半島地震による被災地のみなさまへ(1)

 

山古志も、2004(平成16)年の新潟県中越大震災(中越地震)で甚大な被害が発生し、

余儀なく全村避難しました。

 

中越地震について山古志住民が証言として残したものを

「山古志から能登半島の集落のみなさまへのメッセージ」として取りまとめてみました。

やまこし復興交流館おらたるに残る 山古志住民の震災当時の証言です。

 

「思いは同じ」それだけをお伝えできるように、事実だけにとどめる。

発災、避難を体験し、避難所生活での時間、被災地として感じたこと。

同じ被災者だからこそ応援や励ましの言葉も付け加えずに、

証言の記録だけでまとめようと決まりました。

 

おらたるホームページ

https://orataru.net/notomessage/

 

「集団避難はできないもんかねぇ」

 

能登の厳しい避難生活が報道される中での地域の方からの言葉でした。

全村避難という厳しい経験をした山古志の方でさえも、そう思える過去に変わっている。

 

その後、能登の子どもたちの集団避難についての報道もあり、

20年の経験は言葉にして伝えることが必要だと感じた時でした。


  【執筆】やまこし復興交流館おらたる 小池裕子(第2話)

140号 2024/3/11

高校1年生だった私の体験(4)10月24日 続き

 

市役所の受付のそばで段ボールの上に座っている間、色々な人を見た。

外国人の避難者がいて「この言葉は英語ではこう言うんだよ」などと、私たちに話しかけてくれた。

接している間はその方はそんなに不安でないように見えた。

今思えば、その方はALTの方だったのかもしれない。

私たちに言葉を教えている間はその人も笑顔だったのが印象的だった。

 

市役所の受付に怒鳴り込みに来ていた年配の男性もいた。

「どうして川口には救援が来ないんだ」と職員さんに言っていた。

おそらく川口の住民なのだろう。

その瞬間は恥ずかしい気持ちになったが、その人も余裕がなかったのだろう。

 

私は自分が長岡駅で被災して比較的良い条件の中で避難していたから、

水も電気も食べものも来ない川口の被災者のつらさまで考えが及んでいなかったのだと思う。

その事の方が今は恥ずかしい。

 

その人も川口のみんなが大変な状況を見て、どこかに現状を伝えなければいけないから、

仕方なく声を上げに来ていたのではないかと思う。


  【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第4話)

139号 2024/3/10

高校1年生だった私の体験(3)10月24日 

 

翌日の朝、たまたま地震前に服を買っていたのでそれに着替ることができた。

一緒にいた幼馴染の伯母さんが長岡に住んでいて、

子どもだけ2人で居るのは良くないから一緒に避難所に行こうということになり

3人で幸町の長岡市役所へ向かった。

 

市役所では1階が避難場所になっていて、段ボールを配っていた。

段ボールを敷いて、阪之上小学校でもらった毛布を掛けて寒さをしのいだ。

市役所では菓子パンやおにぎりなど、お腹にたまる食べ物が多く配給されていたように思う。

 

市役所にはボランティアの受付があり、体調が悪いわけでは無かったので、

じっとしているより動いたほうがいいかと思って何かボランティアをしようと話していたが、

またいつ移動するかわからないので、逆に迷惑をかけるかもしれないと、結局思いとどまった。

(明日に続く)


  【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第3話)

138号 2024/3/9

中越地震と私(その5)~児童名簿管理~

 

小千谷小学校は、広い学区に児童数1000人を超すマンモス校だった。

そのため、発災後の児童安否確認には漏れ落ちが無いよう、

組織的に一斉確認することにした。

 

発災翌日から町内別の児童名簿を作成し、各担当者は住宅地図を頼りに児童宅を把握した。

職員は二人組になり、徒歩や自転車で各町内を回り、得た情報を学校で突き合せた。

家具の転倒により怪我をした児童がいたものの、

県外の施設に避難した児童を除き一日半で安否確認は終了した。

 

児童名簿の管理は、被災状況や現在の生活の場の把握にも極めて重要だった。

特に11月8日の登校再開後は、「今日は某避難所から登校し、某町内の祖父母宅に下校する」など、

子供の生活も流動的な部分が増えた。

それらに対応して職員が下校引率することから、毎日下校班名簿を作り直す必要も出てきた。

 

また、避難所生活が続く中、総合体育館で寝起きし、

そこから登下校する子供たちが一定数固定してきたため、

町内班編成を見直し「総体」という新しい町内班ができた。

 

学校再開後も道路の補修等が続く一方で、

高速をはじめ通行が再開される道があると、通学路の状況も日々変わった。

大雪の冬の間も、安全な通学路の確保を続けた。

警察からの情報や街頭安全指導がありがたかった。


  【執筆】前見附市立見附小学校長 前日本安全教育学会理事 松井謙太(第5話)

137号 2024/3/8

地域の“底力”を知る

 

私は中越地震前の旧山古志村の姿を知りません。

 

就職を機に新潟へ移住してきた私にとって発災当時は入社6年目となっていましたが、

なかなか中越地方に取材で行くことはありませんでした。

中越地方の取材はそのほとんどが長岡支社の記者が担当しており、

本社勤務の私にとって中越地方は未開拓の場所でした。

 

それでも震災をきっかけに私も取材団の仲間に入り、当時の山古志村に入りました。

目の前に広がっていたのはいわゆる「震災ダム」と化した集落でした。

家々が水没し、家族同然の牛たちは牛舎の倒壊によって死に、

錦鯉の池も崩れてしまっていました。

 

震災前の美しい棚田の風景や池で優雅に泳ぐ錦鯉たち…

私は写真や過去の映像でしか見たことがありませんでした。

 

震災から5年、10年と月日が経過し、

その風景が戻りつつあることに驚いたことを覚えています。

 

一度は全ての村人が村を離れ長く仮設住宅で暮らしをしていましたが、

「帰ろう山古志へ」を合言葉に、その後、再び集落に戻ってきた地域の人たちの

繋がりの強さと「復興してみせる!」という人々の強い思いから

今では「遺構」として残されている水没した家々の周りは

震災前の棚田や錦鯉の池が見事に復活を遂げています。

これは一重に地域の人たちの“底力”だと思います。


  【執筆】BSN新潟放送 メディア本部報道制作局 報道部長 酒田暁子(第3話)

136号 2024/3/7

地球の裏側で(その2)

 

日本が中越地方に起きた災害により様々な業種で混乱している中であっても

米国での自動車生産が特段の配慮をしてくれる訳ではありません。

 

オハイオの工場の顧客である日系自動車メーカーのみならず、

いわゆるビッグスリーの生産ラインを停めてしまうという

恐怖に満ちた想像が頭の中で渦巻きました。

 

顧客の生産ラインを停めないためには、

一か月ほど前にリリースされた内示計画、一週間前の確定受注など

幾らかの不確定要素を含む「生産指示」に対応して製品を作る訳ですが、

生産のための部品や材料は現地調達を拡大しつつあるものの、

日本依存のものも当然残っていました。

 

部品や材料の在庫はおおよそ一か月分あるのですが、

自動車メーカーの生産計画の変更や「ある筈の部品や材料が実はなかった」などで

製品を作れないピンチに遭遇することもある訳です。

 

この様に常に「生産を継続するためのリスクを余計に抱える海外生産」は、

自然災害で大きくゆさぶられることになる訳です。

  【執筆】中越市民防災安全士会 会長 岸和義(第2話)

135号 2024/3/6

長岡市災害ボランティアセンターの運営 ~苦悩の日々~

 

震災が発生して、3週間が経過した。

本来ならば、ボランティアが家屋の後片づけなどに活躍していると思われるのだが、

支援ニーズは、災害ボラセン側が予想していたよりも出なかった。

 

顧みるに、何かをきっかけに見ず知らずの人たちが大量に入ってきた経験がない土地柄からか、

知らない人にモノを頼むのを躊躇してしまうのだろう。

 

ニーズがなかなか出ないことに対し、

日に日に、訪れるボランティアからも県民性を否定する意見が続出してきた。

挙句の果てには、災害ボラセンのスタッフだけではなく、

地域住民に対し暴言を吐きまくる者も出てきた。

 

当然、活動の閉そく感、ボランティア同士の雰囲気も悪くなってくる。

これらボランティアから数々寄せられる意見。

社協職員に対する苦情などは構わないが、住民を傷つける言葉に対し、日々悔しい思いをした。

 

  【執筆】長岡市社会福祉協議会  本間和也(第5話)

134号 2024/3/5

ライフライン途絶と代替

 

中越大震災では、ライフラインが途絶して生活に困りましたが、

魚沼市在住で兼業農家の同僚の一人から「困らなかった」と言われたことがありました。

 

停電しても、農業用発電機があった。

断水したが、井戸が近くにあった。

まだ、くみ取り式のトイレが残っていた。

倉庫には収穫したばかりの米があり、野菜は畑に残っていたというものです。

 

これを聞いて、便利で快適な生活をするほど、

被災後の生活の不便さとのギャップが大きいことを知りました。

 

ライフラインが途絶して、加温も調理もできないから、

開封するだけで食べることができる非常食が必要と考えがちですが、

ライフラインの代替を備えておくことのほうが大切でした。

 

停電しても電気自動車があれば代替できます。

都市ガスが停止してもカセットコンロやプロパンガスを事前に備えていれば、

或いはペットボトル入り水を備えていれば断水でも慌てることはなくなります。

このことを、被災生活のなかで実感できたことは収穫でした。


  【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第5話)

133号 2024/3/4

ノリノリスイッチ

 

中越大震災20年プロジェクトに学生研究員として携わっている中村早希と申します。

中越地震からの復興に携わった方々にインタビューを行い、

文字起こしをして記録するというお手伝いをしていて、

これまでに20件弱のインタビューに同行しました。

 

お話を聞いていて一番楽しいと思う瞬間は、震災に関係する内容でもそうでなくても、

その方のスイッチが入って口調に熱が帯びる時です。

よしよしと思います。

 

その後の文字起こしの手間を考えても、相槌や質問で話し手が頻繁に入れ替わるより、

一人が長い時間ずっと話している方が作業が楽なのでありがたいです。

そしてスイッチオンのきっかけが自分の何気ない質問だったりすると、

その人の核となる部分を解き明かせた気がしてますます嬉しいです。

 

これからあと何人の方にインタビューできるか分かりませんが、

たくさんのノリにノった語りが聞けるといいなと思います。


  【執筆】大阪大学人間科学部人間科学科4年 共生行動論研究室 中村早希(第1話)

132号 2024/3/3

今思うこと(その2)

 

しばらくして学校も始まり自分の生活が落ち着いてきた頃、

おじいちゃんおばあちゃんのいる、川口町と小千谷市に行ってきました。

 

被災の大きさに驚きが隠せなかったのと、

大好きなおじいちゃんおばあちゃんが悲しい顔をしていたのを

隣で見ているのが一番悲しかったです。

 

今はこうして防災の勉強をして発信している立場ですが、

なんで今に至るのかというと、自分自身、

中越大震災で考え方や人生が変わったからです。

 

同い年で亡くなった子も何人もいるから他人事には思えなくて、

今活かしてもらっている人生を存分に生きようとそう思えたのです。

そして中越大震災でたくさんの方に助けて支えてもらい、

助け合いの心、思いやりの心を大切にしていきたいと感じました。

 

失ったものはもちろんありますが、

中越大震災があったからこその経験や出会いというのもたくさんありました。

そのご縁を大切にこれからは誰かを助けられるように

これからも発信を続けていきたいと思います。

  【執筆】農業タレント 田中彩貴(第2話)

131号 2024/3/2

町内会長として怒涛の日々が始まる(第3回)

 

吉谷地区は個人宅前も含めて4か所の避難所が開設されたが、

吉谷小学校は吉谷11町内の基幹避難所となった。

つまり、行政やその他の支援は私の居る吉谷小学校が1次的な窓口となる。

 

開設当初は各地も混乱していたせいか、

個々に集まりテントや体育館に寝泊まりするだけの日々だったが、

暫くすると支援物資が毎日のように届くようになり、

行政からの連絡も日に日に増えてきた。

 

私はここに集まった3町内の町内会長と相談して、

避難所の管理を交代で行うこととしたが、

他の二人は高齢で結局私一人が行うことになった。

 

毎日のように来る支援物資やボランティア、行政からの各種連絡に対応するため、

私は住民を集めてこう話した。

 

「これからこの避難所のルールを言います。

 朝8時になったら各家庭から一人は必ずここに集まり、連絡事項を聞いてください。

 後で聞いていないと言われても、それは参加しなかった家庭の責任です。

 この災害は今まで誰も経験したことがありません。

 私も間違っているかもしれません。ただそれは許して付いてきてください。」

(つづく)

 

  【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第3話)

 元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)

130号 2024/3/1

中越大震災発生!消防士だった私の体験談③

 

当時のアパートは、実家から車で15分。

電気・ガスはストップだが、水は使える。でもこれからどうなるか分からない。

ミルク、おむつ、おしりふき、着がえ、水や食料などはアパートに買いだめしてある。

 

母に家族を頼み、信号も消えている中、車を走らせてアパートへ向かった。

途中、2回目の震度6強が…。

徐行より少し早いくらいの速度にも関わらず、

ハンドルをとられて危うく縁石に激突するところだった。

 

アパート近辺につくと、近所の人たちが暗闇の中で呆然としている。

当時住んでいた町内は、こんなにも大人が本気になるかと思うほど

運動会に向けてガチで練習したり、スポーツ大会や飲み会もあったりする町内。

知っている人も多い。

 

皆さんの無事を確認し、車に荷物を積み、

こっちの家族も無事で実家にいることを伝えてアパートを後にした。

暗闇の中、一人でロフトから荷物を出す間も続く余震…。

当たり前ですが、ヘルメットしてたって恐怖にはかわりない。


  【執筆】NPO法人ふるさと未来創造堂 常務理事兼事務局長 中野雅嗣(第3話)

129号 2024/2/29

被災地の人々(その1)

 

あの瞬間、川口町の高台にある川口町営温泉「和楽美(わらび)の湯」

(現「川口温泉リゾート」の玄関ホールで跳ね上げられた。

多くが転倒し、四つん這いになった。

 

玄関前駐車場の不自然に並んだ車を後にして、街中の自宅を目指した。

道1本は路面の段差で不通。

別の道へ、軽自動車で低い段差をジャンプして越後川口駅前の東川口へ。

 

夕暮れの中、明かりは無い。

土ぼこりの匂いに、聴き取れない人の声が重なっていた。

道路上に散らばった木片などを避けながら着いた自宅に家族は居なかった。

 

隣の衣料品店、食料品店は倒壊し、

向かいの玄関では、高齢の母親を抱えながら避難を急いでいた。

 

「誰か来てくれ、人が家の下に」との星野敏雄氏の声に、

渡辺勇作氏と駆け付けるが、折れた戸や柱、押して動かせない。

1階に声を掛ける中、余震で隣家の屋根瓦が落ち、私達の足元で割れて飛び散った。


  【執筆】中越市民防災安全士会 会員 吉原 昌隆(第1話)

128号 2024/2/28

北仮設と足湯(その3)

 

北仮設での足湯は、仮設がなくなるまで毎月行われました。

今になって思うと、この「毎月」というのが、とても大切だった気がします。

足湯が終わると、「今度はいつ来るの?」「〇日です」「待ってるね」

というような会話が行われるようになりました。

 

大阪から現地に行けない間は、学生たちは手紙を送っていました。

すでに長岡に住んでいた私は、足湯ではないタイミングに訪れた北仮設の集会場で、

ある方に「お前は大阪の人間だろ、この人は知っているか?」と手紙を見せられました。

 

なじみのある名前で「知っていますよ」と答えたら、

「そうか、よろしく伝えておいてくれ」と手紙をかばんにしまわれました。

なんと、その方は買い物に行かれるにも、でかけるにも、

その手紙をかばんにしのばせておられるというのです。

ああ、彼女たちは現地にいない間も、こうやってつながっているんだなあと感慨深く思いました。


  【執筆】大阪大学大学院人間科学研究科 准教授 宮本匠(第3話)

127号 2024/2/27

避難所生活であぶり出された日常生活の不安

 

中越地震の特徴の一つに、発災からかなりの期間が経過しても

避難所に留まる市民(特に高齢者)が多かった点があげられる。

その要因の一つとして、日常生活に不安を抱えながら暮らしている高齢者が、

実は避難所生活ではその不安がかなり解消されていたという一面があったからだ。

 

近くに市営住宅が何棟もある市立東中学校には、高齢者が多く避難してきた。

急遽、臨時避難所として開設にあたった私は、そのまま責任者として従事した。

余震が少なくなるにつれて、避難者は自宅に戻り始めた。

だが、日常生活に戻ることに大きな“ためらい”がある人たちもいた。

足が悪い中で、上り下りしなければならない5階建ての団地。

家具や食器などが散乱し、どこから手をつけていいのやら途方に暮れてしまう室内。

一人であるいは夫婦二人だけで余震におびえる孤独で不安な日々…

 

避難所では、周りの人たちと不安を共有していた。笑い声が出るひとときもあった。

顔なじみとなった避難所職員は、ノートを見ながら薬服用の確認をしてくれた…

学校の再開のことなども考えると、そろそろ帰らなければと思いながらも、

避難所が閉鎖になるまではつい居続けてしまうと話してくれる人たちがいた。

 

このため、残っている避難者と避難所職員との井戸端会議を連日行った。

・同じ市営住宅に住むオピニオンリーダー格の人から先に自宅に戻ってもらい、

 余震が来た時の様子などを避難所に残る人たちに報告してもらうこととした。

・自宅の部屋の片づけを手伝ってくれるボランティアを手配することとした。

・避難所での人間関係が帰宅後も続く工夫を話し合い、やってみることとした…

 

避難所での経験は、日ごろの人と人とのつながりを取り戻すための力となった。


  【執筆】公立大学法人長岡造形大学副理事長 河村正美(第3話)

 (前長岡市危機管理防災課長)

126号 2024/2/26

「道の駅」が災害時に果たす役割と中越地震(その1)

 

広い駐車場に着陸した警視庁のヘリコプターが、孤立していた避難者を乗せると再び上昇を始めた。

1月6日に警察庁が公開した映像は、輪島市の道の駅「千枚田ポケットパーク」に

避難していた住民らが救出される様子を映し出していた。

 

YouTubeのコメント欄には、最大震度7の能登半島地震発生から4日後の5日午前9時半頃の撮影とある。

ヘリで救助されるまでの不安はいかばかりであっただろう。

ただ、被災した方々が被災後に過ごしたこの道の駅には、救助のヘリが離着陸できる広い駐車場があった。

上空の映像からは、建物の損傷も見当たらない。

さらに、道の駅では、地元の農水産物やその加工品などが決まって販売されているので、

食料もそれなりに確保できたのではないだろうか。

映像に目を凝らしながら、そんなことを考えていた。

 

全国には、こうした道の駅が約1200か所に整備されている。

立地するのは、災害時に孤立の恐れがある中山間地や半島、津波の危険度が高い沿岸部が多い。

地域の防災拠点に位置づけて、道の駅に食料や飲料水を備蓄しておくのは、

今や設置者である市町村の常識になりつつあるという。

そして、その常識のルーツが中越地震の被災地にさかのぼることを、新潟に赴任している時に知った。


  【執筆】読売新聞所沢支局長 堀井宏悦(元テレビ新潟放送網 監査役)(第4話)

125号 2024/2/25

第5話 復興とはなにか

 

新居での生活が始まったころから復興という言葉が声高に叫ばれ、

周辺では数々のイベントが開催されるようになった。

 

私自身も30年以上も地元から離れ、周りは知らない人ばかりといった状況だったので、

休日に開催される催しには家族共々積極的に加わった。

また、ボランティアという言葉も身近になり、

〇〇復興ボランティア、○○復活ボランティアなど、できる限り参加をした。

 

こうした活動を否定するつもりは全くないし、

当時は阪神淡路大震災の復興しかモデルケースがなく当然の成り行きだと思う。

ただ、こうした活動はこの頃から始まって来る人口減少という大きな問題を

「見ないこと」「後で考えること」としていなかっただろうか?

復興基金を使った箱物の管理は20年を経た今、住民の負担となっていないだろうか?

 

更地だらけの街はその価値を下げ、さらに人口流失を招いている。

この問題は住民・市・県などを越えた国家レベルでの課題ではあるが、

一住民としてなすべきことはなかったんだろうか?

 

企業や会社が大きくなる時の会社運営は容易で、ただ流れに乗っていれば何とかなる。

人口が膨らむ時の街も同じで、お祭り騒ぎをしていれば自然と交流が図られ結束が生まれる。

業績が下がり始めた企業や会社の運営は一手間違えると存続が危うくなる。

「小さくなって生き残る方法を模索する」

これが今をこの地で生きる私たちに突きつけられた命題なのだろう。

 

米沢藩を蘇らせた上杉鷹山は令和のこの世に現れることはない。

また一人の鷹山出現で改革を起こせるような単純な世の中ではなくなっている。

一人ひとりが「小さくなっても生き残れる方法」に向き合えば、

世の中そう捨てたものでもないようにも思える。

 

【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第8話)

124号 2024/2/24

中越地震で被災し全村避難した旧山古志村だから伝えられることがある

 

「やまこし復興交流館おらたる」は中越地震の記憶を証言と写真等で伝えるメモリアル施設です。

開館から今年で10年を迎え、地域住民の皆さんが立ち寄ってくれる地域内外との交流館でもあります。

 

採れたて野菜を施設内の直売所へ出してくれたり、散歩のついでに立ち寄るなど、

会話の中で時に触れ震災当時の話をお聞きすることも。

 

能登半島地震が起きて以降、「山古志も全国の人に助けてもらった」、

「何かできることはないか」と住民の方々からいただく言葉もあり、

福留邦洋館長(岩手大学地域防災研究センター)からの提案を基に、

発信するメッセージをまとめ始めました。

 

能登の皆さんへ、山古志からお伝えできることがあるのではないか。

とはいえ、災害状況はそれぞれに異なり、被災地への対応や復興への道も、

時間も異なる中で何がお伝えでき、どんな言葉を選ぶべきかを慎重に考えて進めました。

 

発災から1ヶ月後の2月1日、能登半島地震の被災者へのメッセージとして、

当時の聞き取りや証言などをまとめ、ホームページ上で公開しました。

https://orataru.net/2024/02/01/山古志から能登半島地震による被災地のみなさま/

 

【執筆】やまこし復興交流館おらたる 小池裕子(第1話)

123号 2024/2/23

被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(6)

-サポートセンター千歳の設置-

 

地震発生1か月後の12月24日から仮設住宅の入居を開始したが、

コミュニティ単位に入居できるように配慮したことは既に述べた。

しかし、長岡操車場跡地(現消防署、防災公園等)の459戸の仮設住宅地は、

複数のコミュニティが混在していたため、

コミュニティの核の構築と高齢者の孤立防止対策が課題であった。

 

そこで、小規模多機能型サービスを既に実施していた

長岡福祉協会の小山剛氏(故人)にお話ししたところ、

案の定極めて前向きであったので、直ちに田宮崇理事長にご同意いただいた。

猛スピードで準備していただき、集会所を利用した「サポートセンター千歳」が12月14日に誕生した。

 

全国初の試みであったので国と県に協議、積極的な同意を得て、

通所介護、訪問看護、訪問介護、配食サービス、介護予防、各種相談の多機能型センターであった。

以後約2年間にわたり機能し、延べ利用人数は21,487人に達した。

長岡福祉協会のご尽力に敬意を表したい。

 

また、集会場を利用したサービスセンターの設置は「長岡方式」と名付けられ、

東日本大震災の被災地においても数多く設置されたことは喜ばしいことであった。

 

【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第6話)

122号 2024/2/22

山古志のおばあちゃんから学んだことを

 

中越大震災から2年が経ち、被災者が仮設住宅から次の住まいへと移った頃、

長岡市千歳の仮設住宅跡地に、当時デイケアセンターとして使っていた建物を再利用しないか

という話が三尺玉ネットに持ち込まれました。

色々と悩みましたが、「多世代交流館になニ~ナ」として運営していくことにしました。

 

煮菜(にな)は新潟の田舎料理の代表。

体菜 (タイナ) や野沢菜、大根菜などを塩漬けにしておき、

冬の野菜が少ない時期に各家庭の味付けで 煮たもので、雪国独特の料理です。

新潟の田舎にいけば冬には必ず出てくるという定番中の定番料理で、

これさえあれば何杯でもいける、というものなのです。

 

山古志のおばあちゃん達から学んだことを忘れず、

こどもから外国人も読めるように「になニ~ナ」という名称が生まれました。

 

「起業の場」「育成・育ちの場」「社会参画の場」「ゆるやかな社会復帰の場」「記憶の場」

という5つのキーワードを掲げて活動を行いました。

赤ちゃんから子ども、若者、母も父も婆も爺も、大学生、タクシードライバー、鍼灸師などなど

になニ~ナにはとにかくいろんな人が集まってきました。

 

になニ~ナは、「される側」から「する側」になれる場です。

これも山古志のおばあちゃん達との経験から学んだものです。

運営のコツは、ゆるやかなルールを参加者と一緒に作り、ゆるゆると守ってきたことです。

 

このときの決断と行動と経験が、今日のNPO法人多世代交流館になニ~ナの原点となっています。

 

【執筆】NPO法人多世代交流館になニーナ 副代表 佐竹直子(第5話)

 (当時は代表)

121号 2024/2/21

何かを与える支援から引き出す支援へ

 

中越大震災が起きる前、私は長岡子育てライン「三尺玉ネット」を立ち上げていました。

子育てのよろずやをテーマに、子育て環境の向上とネットワークづくりを目指す市民団体です。

 

中越大震災の2年後、中越復興市民会議からのわずか5万円の支援金をもとに

「おしえておばあちゃん!長岡の郷土料理」というイベントを企画・運営しました。

 

三尺玉ネットのメンバーは、転入・転勤族の母親が多く、

家庭で子どもに地元ならではの料理をつくってあげたいと思っていました。

そこで山古志のおばあちゃん達から「ちまきづくり」を教えてもらうイベントを開催したのです。

 

結果的にこれが大成功し、多くのことを学ぶことができました。

私たちの満足感はもちろんのこと、おばあちゃん達も喜んでくれたのです。

 

震災のあと、次々と来る支援物資とボランティアさん達を前に、

自分達の生き甲斐、存在価値を見つけることができなかったようですが、

若いお母さん達に料理を教えることで、自分たちも人に対してできることがあることに気づいたのでしょう。

これこそが山古志のおばあちゃん達が潜在的に渇望していたもので、元気の源となりました。

 

何かを与える支援から引き出す支援へ。

支援されている人から上手に何かを引き出して、

得意や秘めた特技を活かすことをが復興につながることを実感させられる出来事でした。

これが後々の活動の基点となりました。

(つづく:明日配信)

 

【執筆】NPO法人多世代交流館になニーナ 副代表 佐竹直子(第4話)

 (当時は代表)

120号 2024/2/20

想像すること

 

私は現在、長岡技術科学大学で雪(主に除雪)の研究をしています。

除雪の安全や技術、担い手確保に向けた取り組みを行っているご縁で、執筆のお話を頂きました。

当時、私は中学1年生で地元の山口県に住んでいたので、直接震災を経験したわけではありません。

 

震災の日は、中学校の文化祭の準備期間中でした。

中越地震のことを知り、私たちのクラスでは文化祭で行う出し物に合わせて、

来場者から募金を集めて送ろうということが決まりました。

印象的だったのが、先生主導ではなく、

生徒たちが率先して募金活動することを決め、取り組んだということです。

 

思い返せば中越地震の前月、2004年9月10日の台風18号が山口県に直撃したとき、

私は人生で初めての停電を経験しました。

同級生たちの家庭もほとんどが停電していました。

洗濯機や冷蔵庫などの家電はもちろん使えず、夜は家族でロウソクの火を囲んで食事をしたり、

トランプをしたりして停電の3日間を過ごしました。

 

そして、翌月の中越大震災。

テレビで地震の状況や、いつまで続くか分からない被害の中で

避難所生活をしている人たちの様子を見ました。

翌日のクラス会では、

 

「自分たちの被害は数日間の停電だけだったが、中越地方の人たちは今、

 自分たちが経験したよりももっとつらい思いをしている、

 だから自分たちにできることをしよう」

 

と皆が同じ思いを持ち、一致団結して募金活動を行ったのでした。

 

人は、悲しくつらい経験をしたら、他の人のつらさを想像して優しくなれる、

そう思える経験だったと今振り返り、これからも大切にしていきたい気持ちだと思っています。

 

【執筆】長岡技術科学大学大学院(修士2年) / 雪カキスト 久門優介

119号 2024/1/19

中越大震災をアーカイブする(第2回)

 

中越大震災で被災した歴史的資料を救済し、

災害復興関連資料の収集を始める時、参考にしたのが、

阪神・淡路大震災における取り組みでした。

 

『阪神・淡路大震災にかかわる史料保存活動の記録-その時何を考え、行動したのか』

(全史料協近畿部会、平成9年発行)は、

近畿圏の博物館・図書館・文書館などの職員の皆さんの活動記録集です。

 

たまたまこの本を持っていた私は、書棚から引っ張り出して、

何か真似できることができないかと思って読み始めました。

 

そのなかに、避難所には様々な貼り紙があったが廃棄してしまったが、

この貼り紙を災害の記録として保存しておけば良かった、

という言葉がありました。

 

捨てるものが災害の記録になるのかと半信半疑でしたが、

避難所になっていた長岡市立中央図書館の職員に電話をして、

セロハンテープが付いたままで良いから、

不要になった貼り紙を箱に入れて、そのまま取っておいてとお願いしました。

 

これが災害復興関連資料を収集した初めての経験になりました。

保存した資料は、災害と復興をかたりつぐための記録として、

この後、活用されていくことになります。

 

【執筆】長岡市歴史文書館 館長 田中洋史(第2話)

118号 2024/1/18

中越大震災をきっかけに、土木技術者になろう!と思った仲間たちの話し

 

2004年10月23日は私の誕生日前日。

明日は長岡市の有名なケーキを予約しているよ!と、

当時大学生だった私の仲間たちは嬉しそうに話をしてくれました。

 

残念ながら当日、ケーキは食べられませんでしたが、テレビで多くの被害を知り、

新潟へ来たばかりだった私は、地震でこんなにも多くの土砂災害や被害が発生して、

地域が孤立してしまうという現状を知りました。

 

そこから数年。

新潟県庁に入庁した私の同期の中には、

あの時ヘリコプターで助けに来てもらったことが忘れられない!

中越地震がきっかけで土木技術者になろうと思った!

という勇士がたくさんいました。

 

今でも土木部が県内各地で開催している建設学習会へ行くと、

「なぜ、土木技術者になろうと思ったの?」という小中学生の質問に対して、

「実は小さい頃に中越地震で被災して、それがきっかけで災害復旧、

 復興の最前線の仕事につきたいと思ったんだ!」

という後輩達がたくさんいます。

 

今後は中越大震災を経験していない若手に向けて

20年間をみんなで振り返り、未来のまちづくりに繋げていければと思っています。

 

【執筆】新潟県土木部(十日町地域振興局地域整備部) 太田あみ(第1話)

117号 2024/1/17

そば打ち名人、腕をふるう

 

川口地域には地震後に立ち上がったそば打ち愛好家たちの地域活動団体があります。

そのひとつが「和南津そばの郷」。

和南津地区にボランティアとしてきていた「オールとちぎ」の方々が

そば打ちをしていたことから地域内で一緒に打つようになったことがその始まりです。

 

地震の翌年、2005年から作付けできない田んぼでそばの栽培を行っています。

田麦山地区の「田麦山そばの会」は2008年から活動をスタート。

田麦山地区内の高台である岡平でそばを栽培しています。

どちらの団体もそばのつなぎには海藻の「フノリ」を使ったのど越しのいいそばです。

イベントの際はそれぞれの打ち手が協力し合ってそば打ちを行ったりしています。

 

「和南津そばの郷」はコロナ禍からイベントを自粛していますが、

和南津産そば粉は道の駅あぐりの里で販売しています。

「田麦山そばの会」は年2回、春と秋にイベントを行っています。

11月19日に行われた「新そばまつり」では約300食用意したそばが完売しました。

打ちたて、茹でたての香り豊かな新そばを多くの方々が楽しみました。

 

【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構川口サテライト 地域復興支援員 佐々木ゆみ子(第5話)

116号 2024/1/16

竹田元気づくり会議と案内看板 

 

地域復興支援員が竹田集落に来てから

「集落の元気づくり」ということでさまざまな活動が始まりました。

その一つが「集落案内看板づくり」

 

平成の大合併で北魚沼郡川口町大字中山字竹田から長岡市川口中山になったため、

「竹田という名前を忘れないでほしい」「竹田を知ってほしい」

との思いから看板を作ることになりました。

 

当時は絵描きもしていたので全てを任されそうでしたが、

自分は下書き、みんなで色塗り、という方法に。

やはりこの時期は集落のみんなが集まるきっかけにすることが大切と考えました。

さらに「誰かが作ったもの」より「自分達で作ったもの」のほうが

その後も気にしてくれると思ったから。

 

今思えば面倒な方法でしたが、あの方法は最高の選択だったと思います。

看板のお披露目会ではみんなでBBQ、

久しぶりに集落センターに大勢が集まって完成を祝いました。

(つづく)

 

【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第6話)

115号 2024/1/15

中越大震災復興基金と中越防災安全推進機構(第1回)

 

雪解けと共に「復興ビジョン」に示された構想を具体化するための動きが活発化します。

被災地住民の活動を支援するための核となる組織の整備が急がれ、

それを受けて、「中越防災安全推進機構」(以降「中越機構」)の設立が検討されました。

 

長岡市に所在する大学・調査研究機関、経済団体、ボランティア団体等によって生まれた組織は、

被災地の安全・安心を確保するために、防災安全を学問として研究する必要性を強調します。

 

その上で、中越地震で経験する幾多の「経験」と「教訓」を、

次の被災地に、次の世代へと伝承するため、

多様な主体の英知を集結・連携して復興支援活動を展開すると明文化しました。

 

【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第7話)

 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

114号 2024/1/14

山古志村支援チームの活動 山古志村役場長岡支所開設へ(その1)

 

テレビでは連日連夜被災地の様子が放送され、

特に山古志村の状況は各局で繰り返し放送されていた。

ヘリコプターによる全村民の避難、日々水没していく木籠集落と

応急排水対策の様子などの映像には強い訴求力があった。

 

発災から3日が経過した頃、私は市町村課で県内外の自治体からの

職員派遣と被災市町村の受け入れのマッチングに取り組んでいた。

今のようなネット環境は無く、電話連絡に頼る当時の状況ではかなり手間取っていたが、

ちょうどその頃稼働した県市長会と各市とを専用端末で結んだネットワークに

乗っかることで作業が軌道に乗り、時間的にちょっと余裕が出てきたところだった。

 

県災対本部もフルスロットルで動き出しており、

同世代の課長補佐連中のほとんどが本部要員に動員されていた。

災対本部会議の知事対応もかったるくなってきた。

 

さて、そろそろ自分も本庁を抜け出して最前線の現場へ行きたい

という思いがふつふつと湧いてくる。

そこで2つのミッションを挙げて、市町村課職員を中心とした

山古志村支援チームの編成を課長、部長に提案、知事にも話が通り、ゴーサインが出た。

 

時を同じくして、長岡市から市の分庁舎を山古志村の仮役場として

提供する旨の連絡があり、正に渡りに舟。

また、県災対本部には孤立集落対策班が設置され、山古志チームも招集されたが、

孤立集落は避難と道路の仮復旧で早期に解消されるはずなので、

山古志チームは別活動とすることにし、本部には一応仁義を切っておいた。

さて、行くぞ山古志!

 

【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第4話)

113号 2024/1/13

人と防災未来センターの活動

 -神戸からみる中越地震の復興の意味(5)-

 

阪神・淡路大震災の教訓を後世に伝え、また今後の防災対策に資するための組織として、

神戸の地に「人と防災未来センター」が2002年4月にオープンしました。

震災の実状を伝える展示施設、その教訓を踏まえた災害への備え方に関する啓発展示など、

国の支援を受けながら本格的かつ大規模な施設です。

 

そういった展示にも力を入れた施設ですが、それだけではなく、

「阪神・淡路大震災の経験と教訓、学術的な知見や蓄積された研究成果に基づき、

我が国の防災上の課題を的確にとらえ、政府・地方自治体・コミュニティ・企業などの

災害対策や防災政策の立案・推進に資する実践的な防災研究を実施する。

そして、知の新たな体系化と、その学術的価値の確立を先導する。」

ことを目的とし、また若手研究者の育成も目指した研究部門も併設されました。

 

設立当初に研究員となった当時の若手研究者は、

手探りで研究、研修事業の企画等を進めていましたが、

彼らが災害現場にいくことになった初めての経験が2004年10月に発生した各地の災害でした。

 

その最初が平成16年台風23号による被災地でした。

10月20日から21日にかけて兵庫県北部豊岡市を中心として、

円山川、出石川からの洪水で市街地が被害を受けたことに対応し、

災害対策本部の支援等に向かうことになりました。

 

その対応をしているさなかに起きたのが10月23日の中越地震です。

もともと阪神・淡路大震災が契機となった組織であることもあって、

研究員の皆さんは急遽そこから新潟に転戦し、さまざまな災害対応支援に従事することになりました。

ただ、兵庫県の組織でもあることから、まだ大変な状況の県内自治体をほったらかして、

新潟に行ってしまうことに批判的な意見もあったようですが、その取組は現在も引き継がれ、

全国各地の災害で人と防災未来センターに所属する人々が活躍しています。

 

【執筆】兵庫県立大学大学院 准教授 澤田雅浩(第5話)

 (長岡震災アーカイブセンターきおくみらい 館長)

112号 2024/1/12

中越地震、その時何が(その3)

 

長岡支社には全国からの取材班が次々と訪れ、現場へ出かけて行った。

ここを拠点に情報収集や資料のコピーを始め、食事や水の補給、仮眠など、

取材班の最前線基地として機能し始めた。

土地勘がない取材班のため、道順や行き方などを教えることも多かった。

 

しかし、この間も大きな余震が度々発生。

ビルの管理事務所から避難命令のアナウンスが入り、

6階から階段を何度か駆け下りることになった。

ビルから出た後、真下はガラス窓等が落ちてくる危険性があるため、

反対側の歩道まで避難しなければならない。

真上からの危険物の落下は盲点でもある。

 

自分が単身赴任していた今朝白のワンルームマンションは、

電気やガスなどのインフラが止まり、半壊扱いで入ることができなくなった。

このため、自分たちで用意した支社の隣の貸布団で寝ることになった。

仮眠部屋での1週間の避難生活を余儀なくされた。

 

しかし、テレビ中継で見る各地の体育館は避難者でごった返していて、

そんな避難所に比べれば、電気も水道も使えて、

トイレも自由に使える自分は遥かに恵まれていた。

 

今も続く「体育館でごろ寝」の避難所を見るたびに、

日本の災害対策のお粗末さに怒りを通り越して悲しくなってしまうのは私だけだろうか…。

 

【執筆】 株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第3話)

 (元株式会社TeNYサービス 取締役)

 

111号 2024/1/11

中越地震の経験を活かす(1)能登半島地震

 

中越地震から3年後の2007年3月25日、石川県能登半島で地震が発生した。

私は、石川県との防災協定に基づき、輪島市災害対策本部に支援に入ることになった。

 

到着したその日の夜、市の対策本部で中越地震の経験からの助言を求められた。

課題は、家屋被害認定調査の迅速実施。

輪島市や石川県の体制だけでは全然足らない。広く応援を要請すべき。

新潟県は中越地震や7.13水害の経験がある。是非応援したいと提案した。

 

早速、被災経験のある新潟県内市町村に電話し、

独自に応援に来ている市も含め、8つの市が応援することになった。

富士常葉大学の田中先生による技術指導の体制も整えた。

中越地震の経験が活かされた。

 

この時の経験が元になって、県が市町村をコーディネートし、

研究者とも連携して県内外の災害応援に駆けつける「チーム新潟」の形が出来ていくことになる。

 

【執筆】公益財団法人新潟県スポーツ協会 専務理事 細貝和司(第5話)

 (元新潟県防災企画課長)

110号 2024/1/10

冬まで1ヶ月。復旧は間に合うか(第5回)

 

1月14日、雪の災害を幅広く網羅し、一般の方にもわかりやすく書いた「速報」は、

当日のうちに新聞社のネットニュースとなったのを皮切りに、

翌日の新聞各紙を賑わせ、その後、各所に大きな反響を呼びました。

雪害の多様性から連載記事として取り上げた新聞もあり、

12月下旬まで、ほぼ毎日何らかの形で報道されました。

 

速報発表から2週間、11月終わりごろには当初我々が抱いていた

雪害に対する恐怖感と残された時間に対する絶望感は薄れてきました。

その理由は復旧の速さです。

 

多くの主要幹線道路は、応急復旧段階から本格復旧段階に入っていました。

山古志村の土砂崩れダムでも、春先の大量の雪解け水に対応できる水路が

完成しつつありました。

一方、地震で傷んだ住宅の補修はなかなか進みません。

12月に入り、冬はすぐそこまできているのに、り災証明の発行に手間取っていました。

証明が発行されても大工さんの人手が足りません。お金の問題もあります。

 

当初住民は、住宅再建支援制度や応急補修制度といった

公的支援に希望を抱いていたのですが、役所で説明を聞くと、

「住宅本体には使えません」、「所得制限があります」、

「全壊家屋には補修制度は使えません」など、

生きたお金として使えないということを思い知らされるのです。(つづく)

 

【執筆】長岡技術科学大学 教授 上村靖司(第5話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 副実行委員長)

109号 2024/1/9

高校1年生だった私の体験(2) 10月23日 続き

 

駅前で一緒に避難していた人達が歩きだしたので、

自分たちもそこについて歩いて行ったら阪之上小学校に着いた。

小学校が避難所になるということだったので、ここに身を寄せることにした。

 

夜になり、毛布やおにぎりが配られた。

1人2枚毛布をもらったので一枚を下に敷き、その上に居場所を作った。

 

深夜0時頃になって、ようやく公衆電話を使って家族と連絡を取ることができた。

自分の家族も幼馴染の家族も全員無事だということがわかってホッとした。

母からは電話で川口は電気も水も止まっているから、

多分そのまま長岡に残った方が良いと思うけど、交通手段があれば帰って来なさいと言われた。

 

避難していた阪之上小学校には、その日はまだ正式に就任する前だった

泉田知事がお見舞いに来られたことを覚えている。

 

非常事態で神経過敏になっているせいか、

避難所ではほとんど眠れなかったので友達とずっと話していた。

たまたまだけど、気を遣わない幼馴染と一緒に居られて良かったと話した。

 

【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第2話)

108号 2024/1/8

高校1年生だった私の体験(1) 10月23日

 

20年前のあの日は土曜日だったので、幼馴染の友達と二人で長岡に遊びに行っていた。

長岡駅のビルでプリクラを撮っていたら地震が起き、プリクラの機械の中で左右に揺さぶられた。

何が起きたのかわからず、駅の近くだったので新幹線の事故か何かかと思った。

 

機械の外へ出て、目が合った周囲の人と「出た方がいいよね?」と話し、

停止したエスカレーターをおりて建物の外へ出た。

外へ出ると、大勢の人がバスのロータリーに集まってしゃがんでいた。

頭上に落ちてくる物が無い場所を探して自分たちもそこへ避難した。

 

しばらくそこでしゃがんでいたが、川口への帰りの電車があるか不安になり、

駅員さんを見つけて電車は動いているかどうか尋ねた。

「電車?動いていないよ。どこへ帰りたいの?」と聞かれたので、

越後川口と言ったら「震源地じゃないか」と言われ、そこで初めて自分の地元が震源地だと知った。

 

武道窪の自宅は木造で築60年程の古い家だったので、

倒壊して家族が死んでしまっているかもしれない、と思ったら一瞬で不安が増してきた。

動揺して泣きそうな気持になった。

同じ集落に住む幼馴染の方を見ると、同じく涙目になっていたが、

何か話すと泣いてしまう、泣くと不安が増すからいけないと思い何も言葉を出さなかった。

(明日に続く)

 

【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第1話)

107号 2024/1/7

地域復興支援員のこと(その5)

 

気がついたら、お話しできる地域の方が増え、

地域の魅力なら誰よりも話せるのでは? と思うくらい、

山古志が大好きな場所になりました。

 

よーよーさ(盆踊り)も覚えたし、三角ちまきも作れるし、

雪も掘れるし、産業も一通り体験させてもらったし…。

でも、震災の話だけは誰にもしたことがありません。

 

10年という年月は長いようで短く、この頃は体験談を求めて

山古志を訪れる方が多かったように思います。

 

ある日、地域を案内するバスガイドの仕事で

復興交流館の案内をするスタッフが誰もいませんでした。

地域復興支援員の先輩も席を離れられず、私が施設案内をすることになりました。

説明はできるし、これから地域を見て回るだろうから、

展示と地域の情報を絡めてお伝えするのが良いのかなぁと、

来館者の方について行きました。

顔を見て一言、こう聞かれました。「あなた、地域の子?」。

 

以降、地域復興支援員の役割について考えるようになります。

 

【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構 地域復興支援員 臼井菜乃美(第5話)

106号 2024/1/6

中越地震と私(その4)

 

発災の二日後、小千谷小学校(以下谷小)での職員の泊り番が始まった。

職員室の机を動かして多少のスペースを作り、

布団を保健室から持ち込み、固定電話を枕元に置いて寝た。

 

谷小に留め置かれた放送中継車からの報道をご覧になった方なのか、

避難者に関する問い合わせの電話が多かった。

中には我が家の子供用衣類は必要ですか等未明でも電話が鳴った。

私が回答できない内容は、避難所運営をされている市の職員にお願いした。

 

幸いにも谷小の避難所は市役所職員が運営し、

学校職員はその後方支援をするに留まり、これが他校との大きな違いであった。

そのため谷小の教職員は学校再開に向けた業務に専念できた。

 

数日後、兵庫県教委から派遣された震災・学校支援チーム(EARTH)が谷小を訪問した。

彼らは阪神淡路大震災を経験し、専門性や実践力を備えた教職員らで編成されていた。

彼らの指摘や助言の一つに、この学校の教職員の活動が市民の目の前で展開されていないことが、

後に「あの時学校は何もしなかった」という声につながる可能性があるというものがあった。

 

後日そのような地域の声が実際にあったことを伺い、

「地域の学校 地域が学校」を標榜していた学校だっただけに複雑な思いがした。

学校は地域とともに再開し復興させていくという思いを強くした。

 

【執筆】前見附市立見附小学校長 前日本安全教育学会理事 松井謙太(第4話)

105号 2024/1/5

地震がつないだ縁

 

2004年に起こった中越地震。

2002年に生まれ、新潟から遥か離れた地元で高校卒業まで育ってきた私にとって

震災のことは遠い出来事で、その被災地にご縁ができるなんて思いもよらないことでした。

 

大学でたまたま入った研究室で災害復興のことを勉強し始め、

震央のすぐそばにある木沢集落を訪問することになりました。

 

訪れてみると、木沢に住むみなさんはパワフルで愉快な方ばかり。

一緒に山菜やキノコを採りに行ったり、餅つきをしたり

(木沢のみなさんは物理的にもパワフルでした)、

ごはんやお酒を楽しんだり、ご自宅にお邪魔したりと、

たくさんの楽しく暖かな時間を過ごさせていただいています。

 

木沢で聞いたお話で特に印象的だったことのひとつに、

「震災をきっかけにさまざまな人と出会うことができた」というものがあります。

私自身も、その「さまざまな人」の一人です。

 

今の研究室に入っていなければおそらく出会うことのなかった方々に

震災から20年を前にして出会えたことを思い、

地震によってつながる縁もあるのだなと感じています。

 

【執筆】大阪大学人間科学部3年 共生行動論研究室 岩成南奈

104号 2024/1/4

やまのみやげ

 

私が新潟県中越大震災20年プロジェクトの一環として、

木沢でヒアリングを行っていた際に、90歳の女性から聞いた話である。

 

彼女が生まれるよりもさらに昔の木沢では、

父親が山仕事に行くときに母親が弁当を作っていた。

その弁当の量は、とても1人で食べ切れられるような量ではなかった。

しかも中身は白米しかない。

 

しかし、父親は昼時になって弁当を開いてもそのことに驚きはしない。

自分で食べられるだけの量を食べる。

するとちょうどお腹がいっぱいになるところで、白米の中から魚が出てくるのである。

父親はそれを食べるのではなく、あえて残して家へ持って帰る。

そして子どもたちにやまのみやげだと言い、残った弁当を渡すのである。

 

当時はおやつなどなかったから、子どもたちは大喜びでそれらを分け合って食べる。

母親は子どもたちを喜ばせるためにわざと多く作り、

父親もそれを分かっているからわざと残すのである。

 

こうした昔からの優しい心が引き継がれて、

いつ行っても暖かく迎えてくださる今の木沢があるのだと感じた。

 

【執筆】大阪大学人間科学部3年 共生行動論研究室 松本海璃

103号 2024/1/3

地球の裏側で(その1)

 

地震が起きた時、私は長岡の自動車部品メーカの米国工場の責任者として

オハイオ州で生活をしていました。

住んでいたアパートでは日本のTVは契約しておらず、

日本人駐在員からの一報で大変なことが起きた事を知りました。

 

インターネットの情報で、尋常でない事態が起きつつある事を感じながらも

長岡で何が起きていて、起こりそうなのか等、

具体的なことを想定するには数日掛かった様に思います。

 

当時400名ほどの工場に10名程度日本人駐在員がいましたが、

それぞれのネットワークで家族の無事の確認と被害状況の確認を行い、

中にはすぐにでも小千谷に駆けつけたい、との申し出もありましたが、

新機種の生産開始が間近などの理由で帰国を断念してもらった事が思い出されます。 

 

非情な事をしたものだと思いますが、その時は、

何が起きようとも、米国の生産を止めない事が唯一無二の使命だった訳です。

 

【執筆】中越市民防災安全士会 会長 岸和義(第1話)

102号 2024/1/2

長岡市災害ボランティアセンターの運営 ~経験者の押し付け~

 

「本間さん、電話、代わってもらえませんか。電話口で怒っていますので」

すぐに、電話を代わった。

 

「俺は、○○災害のボランティア経験者だが、俺たちが寄附した湯たんぽが使われず、

 避難所の隅に積まれていると他の人から聞いた。

 せっかくの善意で寄附したものが、これでは台無しだ」

と、電話口で怒鳴ってきた。

 

「まだ震災が発生して数日でそこまで行う余裕はないので、

 今しばらくお待ちいただけませんでしょうか」

すると、

「○○災害の時は、被災者が薪の工面やお湯の確保を協力して行ってきたのに、どういうことだ」

と、逆切れしてきた。

 

こちらも少々声を荒げ、ひるまず返答した。

「では、湯たんぽで使うお湯はどのように工面したのですか。

 今は断水が続いており、水の確保やお湯を沸かす薪などの燃料の工面はできません!

 ○○災害では、被災者が自ら行ったということですが、それはいったい何日目の出来事だったのですか」

 

あまりにも正論の返答により、逆切れした相手も、いつの間にか黙ってしまった。

自身の経験を引き合いに出し、押し付けようとするボランティアは、

問題大有りだと思わずにはいられなかった。

 

【執筆】 長岡市社会福祉協議会  本間和也(第4話)

101号 2024/1/1

被災地の生活・活動を支える食

 

1995年の阪神・淡路大震災の事例が多かったように思います。

しかし、中越大震災では、私の周囲にビルの大規模倒壊や同時多発火災はなく、

救出や消火活動にも縁はありませんでした。

 

一方、電気・ガス・水道が途絶し、スーパーもコンビニも、

自動販売機からも飲み物、食べ物は入手できないなかで、

被災生活を続けることが大きな課題となりました。

 

避難生活は漠然と3日間程度と考えていたものの、

停電ですら3日間では復旧しませんでした。

 

これらの問題は、避難所や在宅で避難している被災者だけでなく、

入院患者や病院職員、ライフラインの復旧従事者など、

被災地でのそれぞれの生活や活動する人たちも同様でした。

 

助けるひとを支える食の備えは重要であり、自衛隊が備えている非常用糧食や

レーションなどの民間用製品が開発されていないことがとても不思議に感じました。

災害時は、働く人も我慢を前提にしているのかと。

 

【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第4話)