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0~50号


050号 2023/12/12

長岡市災害ボランティアセンターの運営~設立の経緯~


「本間、お前のところに最初に電話がつながったぞ。
職場はとても使える状態ではないので、市役所の一室を借りた。
俺は市役所にいるから、お前も今すぐ来い!」
事務局長からであった。

事務局長と合流し、今後の方策を協議した。
社協の主要な災害支援は、何といっても、
災害ボランティアセンター(災害ボラセン)の設置、運営であった。

ちょうどその時、7.13水害で災害ボラセンの運営で助言してもらった、
NPO法人「ハートネットふくしま」の吉田理事長が駆けつけてくれた。

早速、翌日の午後2時に、社協と市福祉保健部で協議を行い、
その結果、長岡市災害ボランティアセンターの設置が正式に決定した。

最後に、吉田理事長が一言発した。
「つきましては、災害ボラセンの運営は、ここにいる本間君が中心となって行いますので、
みなさん、よろしくお願いしますね」
「おいおい、そんな話、聞いてないよ。勘弁してくれよ」

全く想像もつかない事態に対し、ただ戸惑うばかりではあった。
しかし、この空気では後戻りできない。
不安は確かに多いが、この瞬間、もう腹をくくる覚悟はできていた。


 【執筆】長岡市社会福祉協議会  本間和也(第2話)

049号 2023/12/11

食べることができる


中越地震の翌24日(日曜日)、
自宅近くの避難所は屋内の天井材が落下して中に入れず、
車で避難所の駐車場に避難しました。

夕方近くに非常食の配付がありましたが、
近くの車にいた叔母に非常食をもらえたか聞いたところ、
昨夜から何も食べていないが、車内にいたため配付するという声が聞こえなかった、
ということでした。

そこで、車にあったお粥の缶詰を発熱剤で温めたところ、
「なぜ、いま温かなお粥を食べることができるのか」と叔母は大変驚きました。

25日(月曜日)、小千谷市から堀之内町まで約15kmを歩いて会社に向かいました。
途中の川口町、堀之内町新道島では家屋被害はひどく、
会社も2工場をはじめ大きな被害を受けていました。

私は会社に宿泊して避難所から出勤する同僚とともに、復旧作業に取り組みました。
食事には、在庫となっていたレスキューフーズを発熱剤で温めて食べることができました。
これにより、社内の評価は「販売見込みなし」から「災害時に必要」と大きく変わりました。
(つづく)


 【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第2話)

048号 2023/12/10

中越地震は、どんな地震だったのか?(第4回)


こうした状況のなか、新潟県は有識者を集め、復興に向けての検討を続けていた構想
「新潟県中越大震災復興ビジョン」(以下「復興ビジョン」)を公表します。
地震発生から僅か5カ月、平成17年3月1日のことでした。

復興ビジョンには「創造的復旧」がキーワードとして示され、
復興までの10年間のロードマップが示されていました。
この復興ビジョンは今なお語り継がれ、秀悦だったと評価を得ていますが、
その大きな要因は、2つのシナリオが示されていたという点でした。

一つは、素早い「復旧」により震災前の状態に戻るけれど、
人々は住み慣れた土地を去り「中越地域の中山間地の息の根が止まる」というシナリオ。

今一つは、地域の意向を確認しながら「創造的復旧」を進め、
中山間地を襲った中越地震の「教訓」を次世代に伝承するステージとして復活。
豊かな自然を始めとした地域資源を巧みに活用した、
魅力ある中山間地として再生するシナリオです。


 【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第4話)

 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

047号 2023/12/9

標柱とメッセージボード


中越地震の震央地は私有地(田んぼ)にも関わらず
「震央メモリアルパーク」として整備されています。

この地が震央地であるという目印のひとつになっているのが
「はるかなるふるさと」と書かれた1本の標柱。
標柱の側面には当時の川口の小学生、中学生からの「たくさんのやさしさありがとう」
などという感謝の気持ちや復興のメッセージの言葉も書かれています。

また震央地を見下ろすように作られた展望台の東屋には
直径15センチほどの木札がずらりとならんでいます。
これは川口中学校の3年生が毎年遠足で訪れ、
「10年後の川口へ」「10年後の自分へ」などのメッセージを残しています。

中越地震から10年を過ぎた2015年から始まったこの「震央ハイク」。
地震の記憶がない子どもたちに復興の歩みを知って欲しいと始まった取り組みです。

回を重ねるうちに中学生は地震を知らない子どもたちになってしまいました。
しかし、木札ひとつひとつに
「川口に生まれてよかった」「人が優しい」「人の役にたちたい」など
子どもたちの素直な想いが書かれています。


 【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構川口サテライト 地域復興支援員 佐々木ゆみ子(第2話)

046号 2023/12/8

多世代交流館になニーナ、オープン


翌日から子どもをおんぶして自転車で近くの避難所や仲間のところへ
お茶やおにぎりを持っていきながら、町の様子や子育て中の人たちの状況を見ているとき、
「食料や安全な場所だけでなく、だれもが安心して過ごせる環境が必要だ。」
と感じたのです。

それは、避難所から子連れの人たちが姿を消し始め、
いても出入り口の寒い場所や隅っこにいる姿を見たからです。

周りの人に迷惑にならないように、と気を遣い、
人目を気にしながらの授乳やおむつ交換している姿を見ながら、
「これは災害時だからではない。日頃から、一歩社会へ出れば子育て中の人たちは
今と同じ気持ちで不便さや心苦しさを感じていたのだ。
それが、年齢も職業も違う人たちが一緒に生活しなければならないこの状況の中で、
浮き彫りになっただけなのだ。」と感じたのです。

それまで「子育てにかかわる人たちでネットワークをつくろう!」と活動してきても、
なかなか「子育てしやすい社会、環境にならないな。」と感じていた頃でもありました。

それから2年経ち、仮設住宅として使われていたプレハブを再利用して
「子育て中のお母さんたちが中心となって、多世代・多文化・他地域・多業種の人たちと、
日常的に交流することで、いざというとき助け合える安心な社会」を目指して、
「多世代交流館になニーナ」をオープンしました。


 【執筆】NPO法人多世代交流館になニーナ 副代表 佐竹直子(第2話)

(当時は代表)

045号 2023/12/7

第2話 いざ現地へ(その2


10月25日月曜日、出社すると中越地震への支援物資と人員派遣が話合われている。
事情を説明して支援車両への同乗を懇願した。

上司からは嫌味の一つも言われたが支援部隊に潜入して一路新潟方面へ。
義理の兄に出会い全員の無事を確認。
「無事を喜びあった」と書きたいところだが
皆この先の不安を抱えて素直には喜び合えない。

義兄から「川口へは道路の状態が悪く車での移動は無理。
原付バイクを用意してあるのでこれで行け。
道路の亀裂にまともに乗り上げるとパンクするぞ」
と注意を受けて原付バイクにまたがり、国道17号を川口町に向かう。

途中10時30分頃、震度6弱の余震が発生。
あとほんの少しで川口町というところで通行止め。
係員に通してくれるように懇願するが如何ともしがたく、
泣く泣く小千谷市の会社の事務所に戻ることにした。

連絡を取り合ったわけではないが、そこで長岡に嫁いだ妹の夫と合流、
「今晩は我が家に泊まって、明日もう一度川口町へ」ということになった。
一晩中、轟音と共に突き上げるような余震が続く。
「暗闇の中で不安にさいなまれながら過ごしている人々がいる」ことを知る。

翌日、まだ国道17号線の通行止めは解除されない。
車の運転が大好きでそこいらじゅうの裏道を知り尽くした義弟と
ミニバンで川口町に向かう。

小千谷市から川口町には私には通ったことのなく
地震でボコボコになった道を通りたどり着いた。
ふるさとの裏山は土砂が崩れ、木々がなぎ倒され、家々は傾き倒壊していた。
空は土煙で茶色に濁り土の湿った匂いがした。
いくつかの幸運に導かれて、父と母に会えた。実家は傾いていた、

あの日、余震の続く暗闇の中で電話機を探して連絡をくれた父。
言うことだけ言って電話を切った意味がようやく分かった。涙が流れた。


  【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第3話)

044号 2023/12/6

第2話 いざ現地へ(その1)


10月25日月曜日、出社すると中越地震への支援物資と人員派遣が話合われている。
事情を説明して支援車両への同乗を懇願した。

上司からは嫌味の一つも言われたが支援部隊に潜入して一路新潟方面へ。
関越は堀之内付近の道路損壊で通行止めのため上信越自動車道で柏崎に一泊。

翌日は小千谷市のジャスコ前に向かう予定であったが
10月27日当日になって長岡市防災公園に行き先が変更。
「なんとかなるさ」と言い聞かせ長岡防災公園へ。

現場に着くと先行部隊にかつての上司の姿があり、
小千谷までなら何とかタクシーで行けるとの情報を得て支援物資の一部を分けてもらい、
タクシーで一路小千谷市の家内の実家に向かう。

長岡を出た時には道路の損壊も少なく実家の川口町にもたどり着けるものと楽観していたが、
片貝を過ぎたところから道路状況がだんだんひどくなってゆく。

道路に浮き上がったマンホール、ボコボコに歪んだ道路、崩れた路肩や塀、
やはり相当な事が起きてしまっているという事を実感する。

小千谷市内の道路状況が不安ということで、小千谷市役所前でタクシーを下ろされた。
幸い家内の実家は市役所から少しか離れていないので、支援物資を背負い歩いて向かう。
(その2へ続く)


  【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第2話)

043号 2023/12/5

被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(3)

 -避難所でのコミュニティのパワー


土砂崩れの被害を受けた太田地区の住民が全員で山を下り、
長岡農業高校の体育館に落ち着いたという報告を受け直ちに訪問した。

何と、町内会長が私に、「清掃責任者の○○さんです。高齢者見守り責任者の△△さんです。
水、食料配布係の□□さんです。」と、紹介してくれた。
素晴らしいコミュニティのパワーだと思ったし、
避難所の運営はスムーズにいくと感心させられた。

長岡商業高校のグランドに、天皇皇后両陛下(当時)が搭乗されたヘリコプターが降り立った。
さっそく、山古志村民が避難する大手高校の体育館にご案内申し上げた。

何と、両陛下は、立膝で全被災者を回りお声をかけられた。
終わってお立ちになった際、皇后陛下のお膝はわたぼこりで真っ白だった。
全村避難で村に帰れない被災者にとって、どんなに元気づけられたことだろうか。
3年後の帰村に向けたパワーをいただいたというエピソードである。


  【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第3話)

042号 2023/12/4

中越地震、その時ガソリンスタンドでは、


震災当時は勤務していたガソリンスタンドで繰り返す大きな揺れのなか、
スタッフも全員無事。
たまたま接客(給油)もなかったことは不幸中の幸いでした。

散らかった商品を片付けて、夜は交代で車内休憩、
夜が明けて給油所のすべてのメーターを記録している頃に、
マネージャーと連絡がとれました。

当時、マネージャーや本社の方がすでにさまざまな方面に連絡をとっていて、
その後の作業もあの状況の中では順調に進んだと思います。
そして奇跡的に一本だけ切れなかったレギュラーガソリンの
ポンプの手回し給油の準備を始めました。

しばらくすると田舎のサービスエリアなので
スタッフの通勤道路から地元の人々が次々とガソリンを求めやってきました。
ここから25日の昼頃まで今いるスタッフで乗り切ることになりました。

当時「若いスタッフがトラウマにならないように」と、
努めて明るく振る舞っていたことを思い出します。
(つづく)


  【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第3話)

041号 2023/12/3

川口町災害対策本部日記(2)


当時、私は県の連絡員として、川口町災害対策本部に派遣となった。
川口町は、発災当初庁舎に被害を受け、中には入れず、
正面玄関前のテントで災害対応が始まった。

私が初めて川口町に行ったのは、しばらくたって最初の混乱が収まったころだった。
最初に感じたことは、職員の顔に表情がないこと。みんな疲れている。
早朝から深夜まで災害対応にあたり、寝るときは避難所の毛布に潜り込む。
自らも被災しているのだ。我々のように交代要員がいるわけでもない。
ただただ頭が下がる。

1ヶ月がたった。町長さんが防災無線で町民の皆さんに呼びかける。
「発災から1ヶ月、皆さん本当によく頑張りました。」
無我夢中の1ヶ月、それでもいろんなことが動き始めている。
職員に笑顔が戻ってきた。

「さあ、立ち上がるぞ。」
そんなことを感じる一日だった。


  【執筆】公益財団法人新潟県スポーツ協会 専務理事 細貝和司(第2話)

 (元新潟県防災企画課長)

040号 2023/12/2

地震から2か月後には冬になる(第2回) 


中越地震の被災の中心となった地域は、平年でも積雪が2mを越える日本有数の豪雪地です。
傾いた住宅に1mを超える雪が積もったらどうなるのか。
陥没やマンホールの隆起で凸凹になった道路には除雪車は入れないし、
消雪パイプも壊れて使えないところも多く、冬に使えなくなる道も相当あるはず。
真冬に強い余震が起きたら、雪の重さと複合してさらに家が倒壊するかもしれない。
次々と最悪のシナリオが思い浮かんできたのです。

国道や高速道路の復旧の速さに比べ、
山や谷を縫うように集落をつなぐ市町村道は復旧が遅れていました。
なんとか仮復旧した道路には10tを越えるような除雪車は通れそうもありません。
ひび割れた道路から植生が剥がれ落ちた斜面を見上げれば、雪崩の頻発も心配です。
春になれば山の大量の雪が融けて流れ出し、
あらたな土砂崩れや洪水を引き起こすかもしれません。

『このままでは大変なことになる』という強い不安と、
冬までに残された時間に対する焦りの気持ちで一杯になりました。
では、一体自分に何ができるのか…。(つづく)


  【執筆】長岡技術科学大学 教授 上村靖司(第2話)

(新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

039号 2023/12/1

地域復興支援員のこと(その2) 


その当時、(公財)山の暮らし再生機構の地域復興支援員は
長岡市の栃尾・小国・川口・山古志地域と太田地区の各サテライト、
それと本部がある長岡地域復興支援センターに配置されていました。

山古志地域に配置されることが決まったのは3月になってから。
諸事情で2月中に転居先を探さなければならず焦った私は、
地図にコンパスで円を描きました。
栃尾・小国・川口・山古志の4地域が等距離になる針の位置は小千谷市。
即決です。この選択が正解だったと分かるのは、まだ先の話。

事務所は震災伝承施設「やまこし復興交流館おらたる」の中にありました。
3人の先輩は、ボランティアセンターにいた頃から地域に伴走しており、
何でも知っている大ベテラン。
仕事は主におらたるの運営支援と山古志住民会議という地域団体の事務局と
しての業務、イベント運営、地域の魅力発信に関わるツアーの企画をすること。
ここから怒涛の企画祭りが始まります。


  【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構 地域復興支援員 臼井菜乃美(第2話)

038号 2023/11/30

中越地震の被害特性と人的被害 


2004年10月23日17時56分、震度7の激震が中越と襲った。
夕闇が迫る中、激しい揺れから身を守った人々は、揺れが収まると屋外に退避した。
そして震度6弱の大きな余震が発生し、
自宅が大きくぎしぎしと揺れるのを目の当たりにした人も少なくない。

震度6弱をはじめ、大きな余震が連覇した。
自宅戻ることを躊躇(ためら)わす余震の連発に、多くの人は避難所で過ごすことになった。
体育館は混雑し、校庭に自動車を持ち込んで避難をする「車中泊」も増えていった。

揺れによる倒壊や土砂災害に巻き込まれて16人の方が犠牲になった。
その直接死を免れた被災者は連発する余震で、避難所や車中泊などで過ごすことになった。
こうした被災後の避難生活の中で、体調を悪化させ亡くなられる方が増えていった。
それは、9年前の阪神淡路大震災でも発生していた。
これらの方も「震災関連死」と認定し、政府から遺族に災害弔慰金を支払われたのである。

新潟県中越大震災は、熊本地震(2016)が発生するまでは、
内陸で発生した地震では最も余震が多く800回を超えた。
そして高齢者を中心に52人が震災関連死と認定され、直接死16人の3.3倍に達した。
関連死が直接死を越えた初めての災害となり、
関連死問題が高齢社会での災害課題であることが示された。

ちなみに、関連死が直接死を上回っている災害は、
東日本大震災での福島県(1,822人対2,337人)、熊本地震(50人対226人)である。


  【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第3話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

037号 2023/11/29

中越地震と私(その1)


発災時、見附の自宅は私と高校生の長男の二人だけだった。
突然の激しい揺れ。ぎっしぎっしと家が軋んだ。
揺れが収まり、やっと声が出た。
「おーい、大丈夫か!」

近くの広場に人が集まってきた。
金髪で全身紫のスウェットの若者が話しかけてきた。
「すごい揺れでしたね。」
しかし、私は生返事。程なく妻も合流。
妻がその若者と揺れの様子について話している。親しげだ。

「誰?」
「ほら、うちの子たちが小学生の頃、
通学班の班長だった○○さんの家のお兄ちゃんじゃない。」

なんと! 目と鼻の先の家なのに。分からなかった。
当時の自分は、他市で勤務し、夜帰って寝るだけ。
近所付き合いは家族任せだった。

学習指導要領では、近隣の人とのかかわりが円滑で安全な
社会づくりには必要と謳われている。
自分が講演等するときも近所の方の顔と名前が分かりますか?
などと話しているのに。
しかし、これが私の実態だった。

ラジオは小千谷が震源といっている。
当時の勤務校、小千谷小学校の校舎はかなり老朽化していた。
校舎は、そして何より児童は無事なのか。
その前に、長岡の塾に行っている娘を迎えに行かなくては。
あっ、また余震だ!


  【執筆】前見附市立見附小学校長

前日本安全教育学会理事 松井謙太(第1話)

036号 2023/11/28

県知事の交代(その2)
 ー神戸からみる中越地震の復興の意味(3)ー

 

新潟県はとても大きな県域を持っています。
災害対応には県も大きな役割を果たしますが、
新潟県庁は被災地からは60キロ以上離れたところにあります。
県は出先機関を各地に持っていますが、そこの職員数も多くはありません。
当初はどうしても十分な対応が難しくなるのは当然でしょう。

さらに、もう一つ大きな出来事がありました。それは県知事の交代です。
9月に実施された県知事選挙には、これまで三選されてきた平山征夫氏が不出馬を表明し、
新人の泉田裕彦氏が当選していました。

当時全国最年少となる泉田元知事は、
震災発生直後はまだ県に設置される災害対策本部の本部長ではなく、
前日夕方、職員に見送られながら県庁を後にしたはずの平山氏がつくことになりました。
ただ、25日に日付が変わるとすぐに災害対策本部長は交代、
就任直後から怒涛の日々を送ることになりました。

週末であったこと、そして県知事の交代、ということが災害時にも起こりうる、
ということを改めて思い出しつつ、やはり直後対応は自分自身、家族、
そして周囲の人達と助け合うことの大切さも感じます。


  【執筆】兵庫県立大学大学院 准教授 澤田雅浩(第3話)

(長岡震災アーカイブセンターきおくみらい 館長)

035号 2023/11/27

県知事の交代(その1)
 ー神戸からみる中越地震の復興の意味(2)ー

 

中越地震の発生は、土曜日の夕方でした。
災害時の対応は、阪神・淡路大震災の経験等もあり、
自助・共助・公助が適切な役割分担をはかって被害を少なくするように
取り組むことの重要性が指摘されています。

しかし中越地震の被災地でも、阪神・淡路大震災の被災地と同様、
公助として期待される行政の対応は遅れることになりました。
それは土曜日の夕方で、通常業務はお休みの日であったことが一つの要因です。

たとえば、台風による被害が想定されるような場合には、気象情報に基づき、
災害対応に関係する職員が庁舎で昼夜、平日休日を問わず勤務し、
被害発生が懸念される状況にいち早く対応できるような準備をすることができます。
しかし、地震は突然発生します。
発生直後にはどの自治体でも、役所にはあまり職員がいない状況だったと思います。
(その2へ続く)


  【執筆】兵庫県立大学大学院 准教授 澤田雅浩(第2話)

 (長岡震災アーカイブセンターきおくみらい 館長)

034号 2023/11/26

同級生から聞く2004年新潟県中越地震

テレビ越しに体感した中越地震は、大学に入学してから人の温度を感じる地震災害となりました。

地震発生当時、親戚や友人が新潟にいなかった私は、とても大変な災害だと思いつつ、
恥ずかしながらどこか遠い出来事のように感じていました。
しかし大学進学後、同じ学科の同期に新潟県の出身者が多く在籍していることがわかりました。

「うちは半壊で、お風呂場に斜めにひび割れがある。」
「自分の家は壊れなくて大丈夫だったんだけど、
父親が役場の職員で建築物応急危険度判定で災害のあとしばらくかえって来なかった。」
「道路の向かい側の地区までは、学費措置の地域なんだけど、うちは対象じゃなかった。
うちは花瓶しか倒れなかったけど、地区の体育館は壊れて避難所にならなかった。
同じ地区なのにこんなに違うんだな、と思った。きっと地盤とか地形の関係だよね。」

後に、災害当時の様子を大学の同期から聞くことになりました。
私が進学した私立大学は、中越地震の被災地域から進学してきた学生は、
受験時の入学検定料の免除、災害見舞金などの措置が当時あったようでした。
近年は、自然災害がたびたび発生しているため、お知らせによく出てくるので、
身近に感じますが、当時の私は、このようなことがあることも言われるまで知りませんでした。

こちらは少し聞きかじっただけで、彼らの苦労は計り知れないものがありますが、
外から見ていた人間にとって、自然災害というものが、
一気に身近に熱を持ち、その現象の向こうに人がいるのだと感じた瞬間でした。


  【執筆】栗駒山麓ジオパーク推進協議会 専門員 鈴木比奈子(第2話)

033号 2023/11/25

地震発生と日本シリーズ

 

中越地震発災直後は現地に行くつもりはなかった。
発災当日、新幹線脱線の様子が報道され、
翌日には妙見谷の崩落現場の様子も報道された。
しかし、現地に行く思いにはなっていなかった。

2日後だっただろうか、夜のニュース番組で中越地震の様子が報道され、
空撮で「水タノム」、「SOS」が映し出されていた。
今飲む水もないのかもしれない。

この地続きの日本で起こっている現実が映し出された。
その報道の直後、CMに入る直前のニュースキャスターが言った一言が
自分を奮い立たせ、現地に向かわせた。

ニュースキャスターは「水タノム」の報道の後、
笑顔で「西武ライオンズが優勝しました」とコメントしてCMへ・・・。

同じ日本で、「水タノム」という人が居て、
数百キロしか離れていない所でビールかけをしている人が居る。
なんだ?この違和感は・・・。
なんかおかしくないか?

その瞬間から、現地行きの情報を集め出し、数日後に長岡入りすることができた。


  【執筆】災害対応NPO・MFP 代表 松山文紀(第1話)

032号 2023/11/24

仕分けルールのルーツ(その2)

 

中越地震の発生直後に長岡に届いた段ボール箱は、
いろんなものが一緒くたに詰め込まれていたり、着古された古着ばかりだったり。
中には、賞味期限切れの食品が混在しているものもあったそうです。

平穏な日々の暮らしを一日でも早く取り戻そうと懸命な努力が続く被災地では、
届いた物資を仕分けする余裕が、住民にはもちろん行政にもありません。
そのため、長岡では、使えない支援物資が市の借り上げ倉庫にどんどん積み上がっていき、
最終的にはかなりの量を処分せざるを得ない事態に陥ったそうです。

「だから、求められているモノを、しっかりと仕分けして送るんです」
そう語る市民ボランティアの思いを土台にして、
「長岡発仙台行きボランティア便」「物資の輸送 連携で成果」
の見出しの記事(2011年4月8日読売朝刊)にまとめたことを思い出します。

長岡発の「仕分けルール」は災害支援時の作法のようにして社会に根づき、
今や当たり前のことになっているのではないでしょうか。

中越地震の発生からもうすぐ20年、苦難の中から得られた数々の教訓が、
この国の災害対応の改善・充実に果たしてきた役割を
改めて考えるべきではないかと思っています。


  【執筆】読売新聞所沢支局長 堀井宏悦(テレビ新潟放送網 元監査役)(第2話)

031号 2023/11/23

仕分けルールのルーツ(その1)

 

中越地震は体験していません。
ただ、取材者として体験された方々から話を聞くたびに、
この地震の教訓が災害対応を正しい方向に導く「道しるべ」になっていると感じてきました。


長岡市民を中心とした東日本大震災発生直後の被災地支援活動は、
まさにそうした取り組みでした。


支援物資を満載した10tトラックの第1便が長岡から仙台に到着したのは、
東日本大震災が発生した8日後の2011年3月19日のことだったそうです。
送り主は、長岡に拠点を構える「東日本大震災ボランティアバックアップ支援センター」。


巨大津波による未曽有の被害に見舞われた東北を支援しようと、
中越地震の復旧・復興に努めてきた11団体で結成されたボランティア組織で、
トラックの荷台には、被災者の手元に届けやすいように、
きれいに仕分けされた支援物資を収めた段ボール箱が整然と積まれていました。


長岡に取材に入ったのは、第1便のトラックが仙台に到着した10日後。
物資が山積みになった支援センターで、次のトラック便を送り出すための準備を
黙々と続ける市民ボランティアから、仕分け作業に込めた長岡市民の思いを
聞くことができました。(その2へ続く)


  【執筆】読売新聞所沢支局長 堀井宏悦(テレビ新潟放送網 元監査役)(第1話)

030号 2023/11/22

長岡市災害ボランティアセンターの運営(序章)~それは突然やってきた~

 

地震発生日は、昨日のことのように鮮明に覚えている。
土曜日の夕刻の地震。職場は週休日のため、
この時刻は、治療院(カイロプラクティック)で肩と腰の治療にあたっていた。


「では、本間さん右肩を回してください」「はーい」
その瞬間、ドーンという音とともに、身体が宙に飛んだ。


「何だ!これは」
まるでトランポリンで弾んでいるような、下から突き上げる縦の激しい揺れ。
すぐさま、帰宅し、家族と妻の両親とともに、避難所に向かった。


避難所に無事にたどり着いた後、職場のことが心配になり、
向かう準備をしていたが、妻からは意外な言葉が返ってきた。
「お父さん、頼むから今日だけはここにいて」
結局、その晩は、家族とともに避難所に身を寄せることになった。


しかし、午前3時に魔の携帯電話が鳴った‥‥‥
(つづく)


  【執筆】長岡市社会福祉協議会  本間和也(第1話)

029号 2023/11/21

地震発生の前に

 

1995年阪神淡路大震災では、被災者が非常食だけでなく救援物資や炊き出しを
必要とする事態が現実になりました。
業務の都合で被災地に行くことはできませんでしたが、
「震災下の「食」(NHK出版、奥田和子著)」を読んで、
非常食と被災者の求める食に大きなギャップがあることを知りました。


その後、被災者の体験をお聞きし、当時の食生活の記録を神戸で調べることができました。
その結果、災害時に必要な食は、対象者を明確にした上で、主食だけでなく副食も、
さらに温かく、食器も含めた自己完結型の商品が不可欠と分かり、
2003年にレスキューフーズの最初のシリーズを発売することができました。


しかし、もう大規模災害など来ないという雰囲気のなかで、
発熱剤まで同梱して高額となった非常食の新シリーズは全く売れませんでした(冷や汗)。
ところが、2004年10月23日(土曜日)新潟県中越地震が発生し、
小千谷市の自宅も堀之内町(当時)の職場も被災してしまいます。
(つづく)


  【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第1話)

028号 2023/11/20

中越地震は、どんな地震だったのか?(第3回)

 

平成17年、被災地は年明けから降り続いた雪で19年ぶりの豪雪となり、
各所で傷跡を残したまま深い雪の下に埋まってしまいます。
しかも豪雪は翌平成18年と連続し、住民を苦しめることとなりました。


多くの被災地住民、特に地域の担い手となっていく若い世代の住民のなかには、
この大地震を機に生まれ育った中山間地を離れるという選択をする人が
少なくありませんでした。


中越地震が、中山間地の息の根を止めるのではないかとの危惧は、
いよいよ現実味を帯びてきました。
過疎高齢化、人口減少、耕作放棄といった課題に加えて、
少子化の波が10年以上も前倒しで進み、危険水域に入る地域も散見されたのです。


インターネットのSNS上では、一時、
山古志村のような持続可能性のない被災地に多額の復旧経費を使う必要があるのか、
全住民に山から下りる費用を負担することの方がよほど合理的だ、
とする投稿が相次ぎました。


  【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第3話)

 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

027号 2023/11/19

北緯37度17.5分、東経138度52.0分の田んぼ

 

この数字は中越地震の震源地です。
地震発生から1年たった日、当時長岡技術科学大学の上村靖司准教授(現教授)が
気象庁の発表した震源地の情報を基に現地調査を行い特定し、
震央地(震源の真上の地上)付近に、この地が中越地震の震央であるという標柱を建てました。


中越地震の震央はなんと3段連なる段々田んぼ、棚田の真ん中でした。


この田んぼの耕作者・星野秀雄さんは地震から10日ほどたった頃、田んぼを見に行ったそうです。
田んぼには崩れた道や斜面から大きな岩や土砂が流れ込み、
その被害の大きさに声も出なかったといいます。


地震を機に耕作を辞める人も多くいる中、
星野氏は代々続けてきた米作りを辞める気持ちにはならなかったそうです。
田んぼの復旧までには重機を使い2年以上かかったそうです。
しかし完全とまではいかず、地震前は約3反あった田んぼは2反ほどに縮小されました。
それでも星野さんは「自分が元気なうちは…」と19年たった現在も稲作を続けています。


  【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構川口サテライト 地域復興支援員 佐々木ゆみ子(第1話)

026号 2023/11/18

2004年10月23日17:56

 

「中越地震から10周年の「10.23市民のつどい」で、
市民代表としてアオーレ長岡でお話させてもらいました。
その時の台本を見返しながら執筆したいと思います。


2004年10月23日17:56、その時私は自宅の台所で夕飯を作っていました。
寒い季節に体の温まる鍋でも、と思い、土鍋に火をかけていました。
足元には9か月の次男がハイハイで寄ってきて、
上の子どもたち二人は隣の居間で遊んでいました。


ゆれた瞬間、土鍋が落ちないように手で押さえ、
足の間に子どもを挟み、揺れがおさまってから、
「おうちがいっぱい揺れたね。大丈夫だよ。」と声をかけることで、
私自身の気持ちを落ち着かせていたのかもしれません。


その後は、近くの空き地で近所の人たちとラジオを聴きながら、
そのころ一緒に子育てのネットワークつくりをしていた仲間たちに電話をかけ、
安否を確認しました。


  【執筆】NPO法人多世代交流館になニーナ 副代表 佐竹直子(第1話)

 (当時は代表)

025号 2023/11/17

今考えて思うこと(第2話)

 

地震の翌日、学校に行くため車で自宅を出ました。
震源地に近い学校でしたので、近づくにつれほとんどの道路は隆起か陥没をしていて、
到底車で走行することはできません。


また、橋の多くも段差ができていて渡ることができません。
仕方なく車を安全な場所に駐車し徒歩で向かいました。
途中崖崩れを起こし道路をふさいでいる箇所が多数あり、そこはよじ登ったりして進みました。


全ての住民が避難した集落を歩いていると、明らかに違和感のある人たちがいました。
その時は気にはなりましたが、一刻も早く学校に行こうという気持ち、
余震の恐怖などがあり違和感以上の疑問を持ちませんでした。


後に警察の方から、恐らくその人達は空き巣だろうと言われ
とても悲しい気持ちになったことを覚えています。
大変な災害に遭遇し、辛い思いをしている被災者の自宅に入って
盗みを働く人間がいること自体切なくなりました。


徒歩で2時間ほどかけてようやく学校に着きました。
避難所になっている体育館に入ると生徒が皆元気そうにしている姿を見て、
心底安心したことは鮮明に覚えています。
とにかく生きること、これ以上に大切なことはないんだと痛感しました。
 

【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第2話)

 (前三条市立第四中学校 校長)

024号 2023/11/16

あの地震から20年も経つのですね

 

あの時から始まったと思うと感慨深いものがあります。
現在の仕事柄、全国の過疎地域にお邪魔する機会がありますが、
今では、どの地域にも、当たり前のように、移住者や地域おこし協力隊がおり、
また関係人口も加わって地域づくりが行われています。
先般訪ねた十日町市松代では、フランス出身の協力隊が活躍していました。

 

震災が中山間地域の息の根を止めるのではと囁かれましたが、
これをきっかけに、外部人材を活用した地域づくりが進められるようになり、
その教訓が全国各地で活かされています。

 

昨日は、私が所属するふるさと回帰支援センター(有楽町)で、
福島県玉川村の地域おこし協力隊の募集セミナーが行われていましたが、満員御礼。
それも20代、30代ばかり。
今日も、千葉県、北海道の移住フェアが開催されていますが、いずれも満員御礼です。

 

20年を機に、これまでのことを、自分なりに振り返ってみたいと思います。
 

【執筆】認定NPO法人ふるさと回帰支援センター 副事務局長 稲垣文彦(第1話)

023号 2023/11/15

地形模型シアターは宮本常一氏の教え

 

やまこし復興交流館おらたるには、展示の目玉として「地形模型シアター」を整備しました。
今でこそ地形模型にプロジェクションマッピングをするのは珍しくなくなりましたが、
当時としては事例がほとんどなく、あっても効果的な展示を行っているものはありませんでした。

 

このアイディアは、関正史さんが言った「地形模型ならば、おれたちは村のことを
全部説明できるのにな」 この一言から始まっています。

 

山古志は「ほうきんとう」という若者サークルが中心となって
地形模型を作成していた経験がありました。
これを指導したのが民俗学者の宮本常一氏であり、
いうなれば地形模型シアターは宮本常一氏の教えから生まれたとも言えます。

 

地形模型に被災した山古志の航空写真を投影する実験を繰り返して
箱庭のようだと評された山古志をシアターに再現したのです。
地質についてなどは越路の大地の会からアドバイスをいただいて
地域の力を借りて完成したのでした。

参考:広報やまこし1982年7月号
https://www.city.nagaoka.niigata.jp/elibrary/kouhou/yamakoshi/file/s5707.pdf

 

【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第3話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

022号 2023/11/14

被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(2)

 -自然発生した避難所-

 

地震発生の翌日には、避難所の状況を把握し、水と食料の配布を開始した。
ところが、市があらかじめ指定した避難所以外に
自然発生した避難所が多数散在するという報告が届いた。
状況を確認すると指定避難所の73カ所に対し、自然発生避難所が52カ所もあるとわかった。

 

さっそく現地にでかけ、被災者の皆さんの意見を聴いた。
散乱した家財道具等の片づけをしたい、余震のたびに被害の拡大の状況を調べたい、
開けっ放しにすると盗難が心配だ、仏壇のそばにいたい等々、
結局できるだけ自宅近くの町内公民館や車に寝泊まりしたいというのがその理由であった。

 

被災者の心情を尊重することとし、
自然発生避難所にも職員を派遣するとともに水と食料を配布することとした。

 

結果として125カ所の避難所を運営することとなったが、
災害復旧は机上の計画通りにはいかないことを痛感するとともに
被災者にも意思があり、大切にする必要があることを学んだ。

 

【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第2話)

021号 2023/11/13

第1話 決意の日

 

地震発生の日、私たち家族は東京都世田谷区の用賀というところに住んでいた。
小学生だった二女と長男は剣道の稽古に出かけて、私はいつものように夕食の準備をしてた。
10月23日17時56分、東京は良く晴れていて、まだ外は明るかったことをよく覚えている。

 

大きな揺れが来て電柱がビュンビュンとしなるように揺れた。
揺れの長さから大きな地震である事は直ぐに分かった。

 

TVのニュース速報が入り「震源は新潟県中越地方、最大震度は小千谷市震度6」が伝えられた。
川口町に住む両親の安否を確認したくて何度も電話をしたが、当然つながることはない。
たてつづけに報じられる大きな余震報道、
その前の大きな震災は阪神淡路大震災、街中が火の海という状況が頭をよぎる。

 

あたりも暗くなって、ニュースに震源と目された小千谷市上空からヘリの画像が流れ、
停電で真っ暗な市街地に唯一灯りがともる小千谷消防署が映し出された。
火は出ていない・・・・と一旦は安堵したが、川口町の状況は全く不明。
その後は余震発生と同じ内容の報道が繰り返されるだけで欲しい情報は全くない。

 

23時30分頃、電話が鳴り飛びつくと父親からの連絡。
「母も無事、家は隣家の倒壊に巻き込まれて倒壊寸前、この家はもう住めない。」
言うことだけ言うと電話は切れてそれきり音信不通。

 

家を離れて30年余り、
「ああ、いつか帰らねば」と思っていたがこの地震が背中を押すことになったか・・・・
と家族を連れ帰る決意を固める日となった。

 

【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第1話)

020号 2023/11/12

多くの人材と知恵を後世に残した災害

 

現在、地域での防災や復興について研究する私にとって、

中越地震は多くの人材と知恵を後世に残した災害という印象があります。

 

2008年10月23日に震災がつなぐ全国ネットワークから発行された

「中越発『救援物資はもういらない!?~新しい善意(マゴコロ)の届け方』」

という冊子はご存じでしょうか。

 

この本は、市役所が支援物資であふれかえった中越地震の教訓を経て、

地域防災計画に「災害発生直後には個人からの救援物資は原則受けとらない」

という方針を加えた長岡市の経験をもとに、

支援者の善意を確実に被災者に届けるための提案をまとめた冊子でした。

 

中を開くと、当時の森民夫長岡市長や、中貝宗治豊岡市長ほか、

この問題に関心を持つ様々な立場の方から知恵と熱意にあふれる寄稿が

寄せられていたことがわかります。

 

この本でまとめられた提言は「救援物資よりも支援金が有効」という認識が

ある程度一般に広まった現在でも、十分有効なものばかりです。

 

現在、冊子の一部は下記のリンクからご覧頂けます。

https://rsy-nagoya.com/volunteer/image/chuetsu-busshi.pdf

全文を読みたい方は、長岡市立図書館やきおくみらいなどに所蔵がある他、

震災がつなぐ全国ネットワーク事務局でも取り扱いがあります。

下記からお問い合わせください。

https://shintsuna.org/inquiry/

 

【執筆】長岡技術科学大学准教授・震災がつなぐ全国ネットワーク共同代表 松田曜子(第1話)

019号 2023/11/11

川口町災害対策本部日記(1)

 

10月23日、夜の県庁災害対策本部。

被災地から次々に被害状況や救援要請が寄せられる中、

なぜか川口町からは何の情報も入らない。

 

情報が無いのは被害が大きい証拠。

県庁からは現地の情報収集と支援のために連絡員が派遣されることになった。

 

その後、数次にわたり派遣された連絡員の一人として、私も川口町に行くことになった。

何かの役に立つだろうと、小千谷の実家から軽トラックを借りて川口町へ向かった。

 

役場の方と一緒に避難所を回ったり、他市町村からの応援を調整したりと、

町の対策本部のお手伝いをした。これが私の防災との出会いであった。

 

その後、10年以上にわたって防災に携わり、中越沖地震や能登半島地震、熊本地震など、

多くの被災地で支援活動を経験することになったが、

中越地震における川口町での経験が、私の原点である。

 

【執筆】公益財団法人新潟県スポーツ協会 専務理事 細貝和司(第1話)

(元新潟県防災企画課長)

018号 2023/11/10

本当に「天災は忘れた頃にやってくる」

 

復興支援員と勘違いされるきっかけとなった中越地震当日の出来事です。
「夜勤明けから連休もらったし、お盆も彼岸も行ってないから、
オヤジ、実家の墓参りに行こうか」

 

2004年10月23日、翌日から墓参りヘ出かけるための準備をしました。
この日は夜勤で夕方からの勤務、24日の夜勤明けで出かけようというわけです。
そして準備を済ませ川口温泉ヘ。

 

父は温泉でのんびり、いつもの温泉仲間と和気あいあい。
自分は2階のトレーニングジムで筋トレ。
その後、父を自宅ヘ送り仕事へ。いわゆる日常です。

 

当時勤めていたのは越後川口サービスエリア下り線のガソリンスタンド。
昼のスタッフがほぼ勤務を終えて、客足が途切れて店内に戻り、
しばらくすると大きな揺れに襲われます。
あまりの揺れに何もできない状況で、その後も繰り返し大きな余震が続きました。
まさに「天災は忘れた頃にやってくる」を実感した日でした。

(つづく)

【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第2話)

017号 2023/11/9

地震被災地に重なった冬の風景(第1回)

 

私は中越地震の本震震源となった旧川口町の和南津(わなづ)で生まれ育ちました。
地震のとき、道路に書かれたSOSの文字がテレビに何度も映し出されたので、
その映像で記憶されている方も多いでしょう。

 

実家には高齢の両親が2人で農業をして暮らしていました。
震災直後になんとか電話がつながり、無事は確認していましたが、
家の一部(蔵)が倒壊したほか、母屋も相当の被害を受けたとのこと。

 

震災直後のSOSの映像を見て、さぞ不便で不安な日々を過ごしているだろうと思い、
一刻も早く救援物資を持って行きたいと思ったのですが、
川口町全体が孤立状態にあって近づくことすらできず、
ただただ心配をしてテレビ映像を見ているしかありませんでした。

 

地震から一週間、ようやく応急的な道路が繋がり、
「災害調査」と貼り紙をした自家用車で検問をくぐり抜けて実家にたどり着き、
両親の無事な顔を見て心から安心しましたことが思い出されます。
しかし、後日「激震ゾーン」と名づけられる和南津地区の惨状を見回したとき、
突然、被災地の光景に冬の風景が重なったのです。(つづく)

 

【執筆】長岡技術科学大学 教授 上村靖司(第1話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 副実行委員長)

016号 2023/11/8

地域復興支援員のこと(その1)

 

(公財)山の暮らし再生機構に採用が決まり、中越にやってきたのは、
震災から11年目の年。中山間地域の暮らしに興味があり、
地域の人々に寄り添う仕事ができたらという思いからでした。

 

採用試験の時のことは今でも忘れません。
案内する職員の方と親しげに話すお兄さんや大人の余裕を醸し出す金髪のお姉さん。
こんな大人の方々と比べられたら、自分は受からないのではないかと思いました。
それが、先輩方と初めて会ったとき。
実は、地域復興支援員制度は10年の期限付きで、
3年延長になるタイミングだったのだと後から知りました。
だから、現役の地域復興支援員の方々も試験を受けていたのでした。

 

面接で「地域の方からあなたは何が出来るか聞かれたら何と答えるか」と問われた際、
何も言えませんでした。
今ならこう答えます。「やってみないと分からないので何でもやります!」。
先輩方がそれを教えてくれたのだと思っています。

 

【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構川口サテライト 地域復興支援員 臼井菜乃美(第1話)

015号 2023/11/7

新潟県中越地震の被害と復興の課題

 

新潟県中越地震は、山古志村(現長岡市山古志)をはじめとする
なだらかな山間を襲ったマグニチュード6.8、最大震度7の地震である。

 

その激震で約2,800棟の住家が全壊したが、最も特徴的な被害は、
山々の斜面、集落縁辺の傾斜地や棚田が至る所で崩壊した地盤災害である。
多くの全壊家屋もこの地盤災害によって引き起こされていた。
谷底に崩落した土砂で河川が堰き止め、集落が水没する事態も発生した。
最も大きな課題は集落をつないでいる幹線道路な寸断してしまったことで、
積雪期を前に全村避難となった。

 

この山間の地盤は、多くの河川が繰り返し水害を引き起こして
日本海の海底に砂や泥を堆積し、湿地帯となっていた沖積地盤に由来する。
その地盤が東西から圧縮されてしわ(褶曲)になり、
水平だった地盤が斜めになって形成された山間地域で、
水平に穴を掘って砂礫層に達すると豊富な地下水を得ることができた。

 

このような地盤が、日本の原風景といわれる棚田のある農山村の景観を創り出した。
肥沃な土壌であるが、大雨になると土砂災害を引き起こしやすい地滑り常襲地帯でもあった。
この山間地域とその生業・社会の復興が中越大震災の復興課題であった。

 

【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第2話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

014号 2023/11/6

「今、いちばん必要なものは何ですか!?」

 

コミュニティFMは大規模災害が発生すると注目されることが多々ある。
FMながおかも当時、災害放送を続けていた。

 

大手ラジオ局から「FMながおかの方に電話出演してほしい」という依頼があった。
避難所を取材したいと思っていた私は「避難所から電話中継をします」と提案した。

 

そこは、とある大きな避難所でたくさんの方が避難していた。
私は高齢の方に声をかけた。「何か困っていますか。」

 

「おにぎりやパンはかりで、お通じが良くない。おなかがパンパンになって…」
「やわらかい食べ物がほしい。煮物がほしい…」

 

そんな話をしているときに、大手ラジオ局との電話中継が始まった。
電話から聞こえてくるアナウンサーの最後の質問が、

 

「今、いちばん必要なものは何ですか?」

 

インタビューを締めるときによくある質問だが、
その時はっと出てきた答えが
佐野:「煮物です!」
アナ:「………あっ、ありがとうございました(ちょっと半笑だったような…)」
佐野:「(汗)」

 

避難者全員に行き渡らない大きな避難所では炊き出しも難しかった。
今ではその答えで良かったと思っている。

 

【執筆】FMながおか 常務取締役放送局長 佐野 護(第1話)

013号 2023/11/5

孤立集落の発生 ー神戸からみる中越地震の復興の意味(1)

 

中越地震の発生は2004年10月23日土曜日17時56分ということは
みなさんよくご存知だと思います。
10月下旬の新潟は、日が暮れるのが早く、発生直後には停電の影響もあり
真っ暗となったことで周辺の被害状況が十分に把握できない地域もありました。

 

発生直後は川口町役場裏の地震計が震度7を記録していたことが伝わらない
状況でしたので、震度6強を記録した小千谷市の中心市街地に多くの報道機関が集まり、
被害の状況を速報します。

 

確かに、小千谷市本町などでは家屋が大きく崩れていたりもしましたので、
この地震が地域に大きな影響をもたらしていることを示すのには
一定の役割を果たしたと言えます。

 

その一方で、震源に近いにも関わらず、被害の状況に関する情報が全くない地域がありました。
実はそういった地域の被害が最も大きい、ということはよくありますが、
中越地震の場合には山古志村、そして川口町、でした。

 

特に山古志村は、村と外部をつなぐ道路がことごとく甚大な被害を受けたことで孤立状態に陥りました。
翌日以降、状況がヘリコプター等の調査によって明らかになり、
自衛隊によって住民は長岡や小千谷の市街地の避難所へと避難することになります。
ただ、その救助を待つ間、集落のみなさんは励まし合い、高齢者等をいたわり、
そして自宅から食材を持ち出してみんなで食べたりと、まさに共助力を発揮して乗り切っています。
自主防災組織はありませんが、地域が持つ本質的な減災力が備わっていたということができるでしょう。

 

【執筆】兵庫県立大学大学院 准教授 澤田雅浩(第1話)

 (長岡震災アーカイブセンターきおくみらい 館長)

012号 2023/11/4

今考えて思うこと(第1話)

 

中越地震の発生時、私は震源に近い長岡市立太田中学校に勤務していました。
あの日は土曜日で見附市の自宅にいたところ、突然の凄まじい揺れで家具は倒れ、
自分自身立っていることもままならない状況でした。

 

自宅が倒壊する恐れを感じ、年老いた父母を連れ避難場所に行きました。
そこには大勢の方が避難されていましたが、寒さと恐怖から急激に体調を崩される方も
少なくなく、その場で息を引き取られる方もいました。

 

同時に学校職員はこういった場合学校に駆けつけ、
生徒の安全確認や避難所運営をしなければなりません。
発災して数時間後、地域や家族の役割を放棄し学校に向かいましたが、
道路は寸断され街灯も消えていて、結局その日学校に行くことはできませんでした。

 

翌日、徒歩で崩れた崖をよじ登る等して学校にたどり着きました。
途中何度も余震が襲い、生きた心地がしませんでした。

 

大規模災害において、避難支援者は同時に被災者であり、地域において、家族において
必要な人材である場合が多いと思います。
今思い返して、あの時の自分の行動が正しかったのか否か、未だに結論が出ていません。

 

【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第1話)

 (前三条市立第四中学校 校長)

011号 2023/11/3

中越地震は、どんな地震だったのか?(第2回)

 

被災地でも特に壊滅的な被害となった山古志村(現長岡市)は、
全村民離村を余儀なくされる事態となり、
自衛隊のヘリコプターで隣接する長岡市に緊急避難しました。
当時の山古志村の人口は2,222人。
被災地は誰一人戻ることができない無人の村となってしまいました。

 

被災地の調査に入った研究者や取材に入った多くの報道関係者は、
被災地の惨状を目の当たりにして、この地震が、中山間地の息の根を止める
ことになるかもしれないと危惧する程でした。

 

加えて、新潟県の中越地域は冬になれば3メートルもの積雪がある、
日本でも有数の豪雪地帯です。
多くの研究者からは、雪が降るまでの2ヵ月間に除排雪体制を
どれだけ整備できるかが勝負だとする警鐘が鳴らされました。

 

国、県、被災地自治体、地元企業はもとより、
全国から応援に駆け付けた自治体の懸命な応急復旧作業によって、
寸断されていた道路交通は確保され、除排雪体制も整えられます。
長岡市、十日町市など拠点都市の機能も回復に向かいました。

 

【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第2話)
 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

010号 2023/11/2

発災当日の点景

 

2004年10月23日土曜日、秋晴れのすがすがしい日でした。

当時、私は県の市町村課に勤務しており、

この10月は17日投開票の県知事選挙の事務対応で、ちょっとくたびれ気味。

市町村課は県の選挙管理委員会事務局を兼ねている。

 

19日に泉田氏へ当選証書を付与し、22日には退任する平山知事を県庁で見送って、

やれやれというところ。

 

さてさて、今日は焼肉を食べに行こうと5時半過ぎに一家揃って近所の焼肉屋へ。

玄関を出ると南の空(中越の方向)にとんがりコーンみたいな雲。

「へんな雲だねぇ」と娘たちと話しながら歩いていると、ドーンと大きな地震、

新潟もけっこう揺れた。思えばあれが地震雲だったのか。

それでも食べる気十分でお店に入ってメニューを見ていると大きな余震、

ニュースでは中越地方で震度5以上ということで、焼肉は匂いだけで我慢。

 

帰宅して宮内の実家に電話してみると、電気・ガス・水道は止まっているものの、

家屋に大きな被害は無いとのことで、災害対応マニュアルに従い県庁に向かった。

ほとんどの職員が登庁していたが、何の情報も指示もなく、

テレビでは平穏な大手通りの夜景が延々と流れるばかり。

結局その夜はそのまま帰宅となった。

 

翌日から中山間地の深刻な被災状況が刻々と伝わり、

25日(月)には泉田新知事のもとでの災害対策本部が始動。

急転直下、県庁内は大混乱となっていく。

 

【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第1話)

009号 2023/11/1

ダンボールハウスの思い出(その2)

 

ダンボールハウスは勉強や、遊ぶ場所になっていました。

子どもたちが見ている前だと片付けもたいへんだから、学校に通っている間に

撤去したいとの意向でした。

 

設置した学生たち数人と、避難所に向かい撤去の準備を始めました。

中だけでなく外側にも落書きがあって、使い込まれた場所であることはよく分かりました。

カーテンをめくって中をのぞくと、テーブルの上に一通の手紙があることに気が付きました。

 

「私たちの大切な場所だから、このハウスときちんとお別れをさせてください。

私たちのいないときに勝手に片付けないでくださいね。お願いします」と

こんな内容が手紙に書いてありました。

 

子どもたちがいない間に片付けて欲しいとの依頼でもあったために、

みんなが戻ってくる前に撤去を行いました。

いまだにきちんとお別れをさせてあげるべきだったのではないかとあの日を思い出します。

 

おらたるでは、ダンボールハウスの説明をするたびに、こみ上げてくるものがありました。

その後、あの部屋で遊んでいた小学生が、おらたるのスタッフになってくれました。

子どもたちに別れの挨拶をさせなかったことや、あの手紙を残せなかったことは今での残念に思っています。

 

【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第2話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

008号 2023/10/31

ダンボールハウスの思い出(その1)

 

私が大学の復興支援センターで活動していたころ、

まだ山古志の人たちが長岡市内の高校で避難生活をしていたころです。

 

慶応大学の坂茂先生から提供いただいた「紙の家」通称でダンボールハウスが

いくつか設置されました。もともとは避難者のプライバシーを守るなど、

避難所内のシェルター的な存在として提供いただいたものだったと思います。

 

当時の避難所の様子が分かる写真を、やまこし復興交流館おらたるに展示しています。

地域住民から話では、パーテーションを立てるとさみしいし、隣の人が見えたほうが

安心だったとも聞きました。地域コミュニティが家族同然だったのでしょう。

 

私が避難所を訪れたのは、縮小させて仮設住宅に移る算段をしていたころだと思います。

片付けられるものは順次片付けていきたいとの依頼から、

子どもたちの遊び場となっていたダンボールハウスの撤去を行うことになりました。

そこで忘れられない出来事がありました。(その2へ続く)

 

【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第1話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

007号 2023/10/30

被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(1)

 

ガラガラと書棚が倒れた。経験したことがない揺れだった。

「しばらく帰れないかも。」と妻に言いおいて自転車で市役所に向かった。

倒壊した家も火災もなかったが街は真っ暗だった。

 

市役所に到着して会議を開こうとしたら、停電と水漏れとのこと。

仕方なく近くの消防本部に移動した。

 

電話が通じず、情報収集が困難だった。職員を偵察に派遣する一方、

ケーブルテレビとFMながおかに依頼し職員に避難所の開設を指示した。

 

給水管の破裂の報告があり会津若松市と高岡市に給水車の派遣を要請。

午前1時半には65カ所に約1万7千人が避難との情報が入った。

(株)原信さん等に水と食料の確保を要請する一方、

仮設トイレとポータブルトイレの手配を始めた。

夜が白々と明け始める頃には、市有車を総動員して避難所に水を配り始めた。

 

25日、長島忠美山古志村長が来訪。

「全村民避難を決断した。全員長岡市で受け入れてほしい。」とのこと。

もちろん同意した。

それから、復旧に向けた手探りの努力が始まった。

 

【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第1話)

006号 2023/10/29

埼玉の川口から越後川口ヘ、そして中越地震

 

中越地震から20年目、

今までの出来事を思い出しながら確認するきっかけをいただき感謝します。

埼玉の川口から越後川口ヘ引っ越しで来て今も竹田集落に暮らす砂川祐次郎です。

 

「埼玉から来た」ということで復興支援員と勘違いされている方も多いと聞きますが、

実は中越地震よりずっと前に引っ越して来ていて、震度7の経験者のひとりです。

その後も復興支援員にはなったことがありません。

 

ただ、誰かを助ける行動は嫌いではないので勘違いが生じたようです。

そして勘違いされる大きなきっかけとなったのが「本物の」復興支援員とのさまざまな活動です。

 

さらに竹田集落に復興支援員が来て具体的に地域活動が始まった時、

たまたま集落の総代になっていたことが勘違いをさらに大きくしました。

この機会に今までのさまざまな活動など、忘れないように書き残しておこうと思います。

(つづく)

【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第1話)

005号 2023/10/28

アニメを見ていたら、テレビ越しに地震が映った

 

2004年新潟県中越地震が発生した日は、土曜日の17時56分。

当時高校生だった私は、神奈川県の自宅でTBS系列で放送されていた

テレビアニメ「ガンダムSEED DESTINY」を小学生の妹と母の3人で見ていました。

 

物語が盛り上がったその瞬間、アニメは突如切れて、

スタジオの実況中継に切り替わりました。

「えええーーー!」とまず最初に突然終わってしまったことに不満の声を上げた直後、

異常に揺れている画面越しのスタジオを見て、

「ええええーー!???」と驚愕の声に変わりました。

 

強い揺れが目の前に見えているのに、自分たちは揺れていない、不思議な感覚でした。

その数分後、自宅がわずかに揺れたのです。

「そうか、地震は波なんだ。伝わってくるのに時差があるんだ。

離れているからゆっくり大きな揺れになるんだ」と身をもって体験した地震が、

2004年新潟県中越地震という災害でした。

 

【執筆】栗駒山麓ジオパーク推進協議会 専門員 鈴木比奈子(第1話)

004号 2023/10/27

初めての“大規模災害”の報道に携わって…

 

地震発生当時、土曜日ということもあり、子ども3人を連れて家族で久しぶりの

休日を楽しんでいました。夕方、新潟市内の大型ショッピングセンターで

夕飯の買い物をしているときでした、突然“ガシャン”と大きな音が響きました。

 

一体なにが起きたのか!その時は分かりませんでしたが突然私の携帯が鳴り

「中越地域で大規模な地震」との連絡が本社からありました。

私は一旦自宅に戻り、子ども達を夫に託して会社に向かいました。

この時はまだ、どれほどの災害の規模なのか知る由もありませんでした。

 

本社で情報を収集していた私は新潟市内から中越地方に向けて取材をしていた

クルーから届いた素材は道路は陥没し、いたるところで液状化現象が起き、

マンホールが隆起している異様な光景でした。

 

まずは1週間、私は被災地に入ったクルーが取材した素材を本社で受け、

朝から夜遅くまで被害状況を伝えるニュース放送に携わることになりました。

 

孤立した山古志の様子、牛の救出、救出された自衛隊のヘリコプターから

故郷を涙ぐみながら眺める人々・・・。

今でもこうした映像は目に焼き付いています。

 

【執筆】BSN新潟放送 メディア本部報道制作局 報道部長 酒田暁子(第1話)

003号 2023/10/26

中越大震災を振り返って

 

2004年10月23日17時56分。

 

地響きのようなゴーっという音を立ててやってきた地震。

当時、27歳。実家に戻ったばかりの若手経営者とは程遠い、若造。

ゴルフコンペを終えて、自宅で風呂に入っていた時の出来事でした。

 

素っ裸にタオルを巻いて、車に飛び乗り、会社へ向かいました。

到着すると会社の天井から配管が敗れたのか水が大量に降っている。

電気は停電している。でも建物は大丈夫だ。

 

社長である親父は商工会議所の旅行で韓国。日本にはいない。連絡もつかない。

自分で会社を何とかしなくては。社員は大丈夫なのか?

不安の中でも使命感を燃やしてスタッフとともにこの日を迎えたのを

鮮明に覚えております。

 

ここから弊社の24時間365日即対応が始動しました。

ライフラインを預かる企業として。地域企業として。できる限りのことをする。

 

20年前を振り返ると、この日以降の復旧・復興工事、地域支援のことなどは

ほとんど記憶にありません。それだけ、必死に走り抜けていたのだと思います。

 

ただ言えるのは、この経験と当時の全国からの物心ともどものご支援があるからこそ

今の自分があり、弊社が長岡にて事業を展開出来ております。

 

中越大震災から20年を迎えるにあたり、越後長岡人として、

あらためて、この復興経験の襷をしっかりと繋ぐ重要性を痛感します。

 

【執筆】水澤電機株式会社 代表取締役 水澤元博

002号 2023/10/25

中越地震は、どんな地震だったのか?(第1回)

 

新潟県は2004(平成16)年10月23日(土曜日)、中越地震に見舞われました。

発生は17時56分、大抵の家庭であれば夕食の用意をしている時間帯でした。

震源地は、中越地域の中核市である長岡市から南方およそ20kmにある

川口町(現長岡市)の山間部。

阪神・淡路大震災以降では、最大規模となるM6.8、

震度7を記録した大きな地震でした。

 

しかも、中越地震が襲った中越地域は、日本でも有数の地すべり常襲地帯で、

地震発生直前に台風23号が西日本から東日本を襲い、

地盤は大量の水を含んでいたものですから、

地盤は普段にも増してすべりやすくなっていたのです。

 

各所で発生した地すべりや土砂崩壊によって道路は寸断され、

河川が堰止められ甚大な被害に見舞われた地域もありました。

道路の寸断は、交通障害を引き起こしたうえに、

電気・ガス・水道といったライフラインの復旧も困難にし、

69にも及ぶ集落が孤立してしまいました。

 

【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第1話)

(公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

001号 2023/10/24

新潟県新潟中越大震災20年目を迎えて

 

2004年10月23日、夕闇迫る中越地域を突然激震が襲いました。

昨日はその新潟県中越地震の19年目の震災記念日でした。

そして今日10月24日から中越地震の20年目を迎えました。

 

中越防災安全推進機構は今日から来年10月23日の20周年震災記念日までの1年を、

中越地震にどう対応し、どう復旧し復興したのか、

そしてどのように人々は関わってきたか、そしてこれからどうしていくか。

 

さまざまな教訓と経験と展望を、毎日、連続365回にわたって発信していく

「新潟県中越大震災20年プロジェクト メールマガジン」

を配信していくことにしました。

 

この新潟県中越地震は、初めて震度7を記録した兵庫県南部地震(1995)の9年後に、

2回目の震度7を記録した直下型地震です。

その地震の被害の激甚さから阪神・淡路大震災と称したように、

農山村直下型地震の被害が甚大となった中越大震災の20年間をみんなで振り返り、

未来に繋げていきたいと思います。

 

【執筆】 公益財団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第1話)

(新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

000号(準備号)2023/10/23

明日から中越大震災20年メルマガ配信

 

現在メルマガに登録されている方にテスト配信します。

今日で新潟県中越大震災から19年が経ちました。

「中越大震災から20年目」が明日からはじまります。

 

たくさん方にこのメルマガをお届けしたいと考えております。

お仲間、同僚、お知り合いなどに登録を呼びかけていただければ幸いです。

また、登録したい方のリストを事務局(chuetsu20@gmail.com)まで

お送りいただければ、こちらで一括で登録することも可能です。

 

それでは1年間、どうぞよろしくお願いいたします。

 

【執筆】 公益財団法人中越防災安全推進機構 事務局長 諸橋和行