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341 中越地震、その時何が(その8)

株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第9話) (元株式会社TeNYサービス 取締役)

 
震災発生から既に90時間以上が経過している。
災害には72時間の壁というものがある。
発生から3日が人命救助の一つのリミット。
3日を過ぎると生存率が著しく低下するのだ。
まして当時は10月23日。秋も深まり、夜は肌寒い季節である。
激しい崖崩れに巻き込まれながら生存のニュースが駆け巡り、
報道各社はその救助の一瞬を見逃すまいと一斉にカメラを現場に向けていた。

はっきりとしたことは分からないのだが、
家族3人が生存しているらしいとのニュースが伝わってきた。
喜びと安堵の空気が流れたことを覚えている。

そして午後2時半過ぎ、
おむつをはいた上半身裸の小さな子どもの姿がはっきりと映し出された。
震災発生から92時間、
当時2歳の男の子が救出される姿が全国の茶の間に生中継された。
奇跡の救出である。崖崩れの落石に巻き込まれた車の僅かな隙間に入り、
奇跡的に命が救われたのだ。

当時、この現場にはシリウスという電磁波を利用した人命探査装置が持ち込まれ、
2歳の男の子の生存が確認できた。
しかし、最後には崩落現場の僅かな隙間に隊員が潜り込み、
命懸けの救出活動で子どもを助け出している。
やはり最後は人間の力なのである。

この時のハイパーレスキュー隊の部隊長は魚沼市出身の清塚光夫さん。
故郷の大災害の救出活動に携わるということで、
並々ならぬ覚悟で現場に臨んでいた。
余震が続く中、救出活動と同時に隊員の命を預かるという
重大な責任の中で現場に入っていた。隊員達にも家族がいる。
絶対に無事に帰還するという決意に揺らぎはないが、
目の前の命を助けるために危険な現場に飛び込もうとする
隊員たちの思いも受け止めていた。
災害現場に臨む消防隊員を始め、自衛隊、警察官達はそんな覚悟、
思いで災害現場に臨んでいることを私たちは決して忘れてはならない。

株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第9話) (元株式会社TeNYサービス 取締役)